仕事のあとの黒ラベルと手製のザーサイ。
優勝。
ちょいちょい通うようになって、ときどき付けてくれるようになったザーサイは、食べごろのときもあるし浅漬けや漬かりすぎているときもあり、家庭料理みたいな味わいがなんとも温かい。
※ザーサイ単体のメニューはなく、隠し味などに使うらしい
お皿もおじいちゃんおばあちゃんの家にありそうなデザイン。
落ち着く。

 
ねぎとハムと卵だけで勝負。
で、卵の分量が多いからやさしい味。
嬉しいときも悲しいときも一緒に寄り添ってくれる。
やさしいしかない。すごいことだ。
 
さて。
第六十七集中部日本歌集を読んでいきましょう。
いつまで続くかわからないけれど、とりあえずこのスタイルでできるところまでやってみます。
 
冷し中華にない色として青をおもふ何かかなしい色だとおもふ
         荻原裕幸 第六十七集中部日本歌集より
 
最後に冷し中華を外で食べたのはいつだったか、と改めて記憶を手繰り寄せていたら、人生で一度もないことに気づいてびっくりした。
初夏や晩夏に、ちゃありいさんの平和園で冷し中華がはじまったとかもうすぐ終わるとか、歌人のSNSがざわつくのを見聞きしていたけれど、あれは食べものというより花火や海水浴と同じような夏の記号(季語と言い換えてもいい)にしか思えないのはそういう理由だったのか。
冷し中華は家庭料理だ。
よく考えると冷し中華ほど自由な料理はない。
なにをのせてもいいし,なにものせなくてもいい。
ごまも海苔もからしもマヨネーズもお好みでどうぞ、と太っ腹なところもありがたい。
麺に至ってはふたつみっつゆがいても下品だなどと文句をいう人はいない。
幼少のころ鍵っ子で自分で料理をすることも多かったわたしは、セルフカスタマイズした冷し中華を既に完成させていた。
きゅうりも卵焼きもトマトもざくざく切ってどっさりとのせる。あれば、体に悪そうな真っ赤な生姜も遠慮なくいく。海苔に至っては手で揉んでざばっとふりかける。最後にマヨネーズでぐるぐると弧を描き、澄んだ三杯酢のスープをわざと汚してかき込むときのしあわせな気分といったら!想像しただけでうっとりする。
さて、短歌に戻そう。
青色はたしかに冷し中華にはない。信号機みたいに、きゅうりの緑を青だなんて言うことはここでは断じて許されないのだ。でも思い出してほしい。冷し中華のスープと麺が入っている袋は青っぽくはなかったか。
留守番をしながらひとりでよく絵も描いていた。
あの頃、水や涙や汗の色がわからなくて青や水色にしていたのを覚えている。
あの頃。
それは今にも連なっていて、いまだに水や涙や汗の色がよくわからないままだ。
ただ、大人になって青ではないということを知った代わりに、青めいたものが混じっているらしいということがわかってきた。
そのものではなく、気配としてちゃんとそばにあることを。
冷し中華もそうだ。青そのものはそこにはないけれど、青の気配を漂わせる。(袋がそうであるように)
そういう意味でいえば青はかなしい色かもしれない。
愛すべきかなしい色なのだとおもふ。
 

水ぶとりした地球から青色を吐きだすためのふゆの悲しみ

         漕戸 もり

 

 

深夜になにかと思ったら今度は地震だ。

海は青いのに津波はそうじゃない。

あの日からずっと黒い。