お世話になったひとがまた亡くなった。
チンさん。
わたしたちがチンさん、と呼ぶと脇田Dによく叱られた。
陳とか珍とか朕とか、ラジオから聴く(音)の響きだけだと意味合いが違って伝わるからという理由だった。
それでも、オフマイクでは彼と親しくなればなるほど誰でもが(Dでさえ)愛を込めてチンさん,と呼んでいた。チンさんは、アマチンさんと呼ばれるよりチンさんと呼ばれるほうが慣れている様子で、ただでさえぎょぎょっとしているまなざしをぎょぎょぎょ、とさせてわたしを見ると「今日も元気だなぁ,きみは」とおかしくもないところで豪快に笑うのだった。
実は元気でもなんでもない、人知れず過食拒食に悩まされ体も心もむくんでいたり、誰かの犠牲の上になりたつような恋愛に自分勝手に酔っていたりと、暗闇を抱えただ大きな声で誤魔化していただけなのに、なにも知らないチンさんに「元気だなぁ」と毎朝言われると「大丈夫か」と心配されるよりずっと気が楽で、それはまるで、名前も知らないけれどなんとなく町の暮らしを守ってくれている町内会の気のいいおじさんのようだったから、わたしみたいな小娘でもチンさんチンさん、とついうっかり懐いてしまったのだとおもう。
 
最近は命の時間を惜しむように、戦争はだめだということを説いていらした。
ほんとうに立派だった。
ひとは死んだらどこに行くのだろう。
なにかひとすじの糸でもいいから繋がっていればいいのに。
そうしたら死は懐かしい知らせになる。
はあぁ。
繋がっていればいいのに。
 

 
死は舌に淡い甘さで飲みこめばやすりのやうにうちがはを裂く
  漕戸 もり
 
 
死と生は繋がっていても、死者と生者に繋がりはない。
そこに宗教があり争いが絶えないとしたら、わたしたちはどの道を歩けばいいのだろう。
ねえ、チンさん。