暦の上では秋だけど、そろそろ選手交代かとやっとおもえるようになってきた。
俳句歳時記の<夏>から<秋>。
合本俳句歳時記も持っているが、コンパクトな季節ごとの歳時記を買い揃えやっとこちらに慣れてきた。
 
それにしても、季節と季節感の差は広がるばかりである。
広がるというより、温暖化の影響で夏の猛暑だけでなく、コートを羽織る5月や11月の夏日や、草花の開花や野菜や魚の旬のズレに至るまで、違和感ばかりのなかに暮らしていると、国語辞典さながら、俳句歳時記も大幅に編纂しなければいけないと言われてもうなずけそうだ。
俳句や短歌を古典として継承していくためにこのままでという思いと、100年後も短歌や俳句が詠まれていくために不可欠だという思いが交錯する。
もし編纂し直すということになれば、これまでにないくらい話題になるし、とてつもない労力と人の手が必要だろうから言い出しっぺは責任重大だ。
大きなお金も動くだろう。歴史にも残る。
そう考えると、なんだかおもしろそう、
 
じゃないだろ!
 
季語を入れ替えなければいけないと懸念するほどの、重篤な地球を救うのが先だった。
ハワイやカナダの山火事にしろ、全く他人事におもえない。
戦争なんかすぐやめて、その技術や費用や頭脳でなんとかしてくれないだろうか。
たいそうなこと言ってるなとお思いでしょうが、市井のわたしがそのためにできることとは、使わない、買わない、リサイクル、ゴミ拾いくらい。
とりあえず、クーラーを切って秋の風をかんじているところである。
 
 
宵闇に肘の絆創膏を剥ぐ     漕戸 もり
 
 
俳句歳時記はすぐれた参考書。
文学のみならず、生活や世界や価値観までもをかんがえさせてくれる身近な<哲学書>です。