ひさしぶりにお好み焼きの八代。
外国人のお客様もたくさんいて店内は満員。鉄板を前にしてマスクをしているのは、店員さんを除いてだれもいない。わたしたちはもう完全なコロナ禍の後にいるのだろうか。
どうなんだろうどうなんだろうと、どことなく灰色の心を揺らしているくせに、とりあえず目の前の鉄板の熱さに<ないこと>とする。
そもそももんじゃやお好み焼きは、わたしたちにセンシティブなことを考える隙を与えない。
焼肉みたいに届いた肉をつまんで焼くだけではない。切ったり混ぜたり整えたり、土手を作ったり、やおら振りかけたり、そのうえ、テーブル面積のほとんどが鉄板なので、それぞれの飲みものや皿や箸や大小さまざまな小手、取り皿や調味料やナフキンやその他諸々を、飲み食べのあいだずっとひとりひとりが整理していないと、途端に卓はゴミ屋敷のようになる。
にもかかわらず、いろいろな味を分けあえるのもあって、卓を囲むならひとりやふたりより4人くらいがちょうどいいとされている。(漕戸総研調べ)
この日は、このようにベストとされている4人で、もんじゃ焼2種、お好み焼き2種、焼きそば2種、そしてサービスのアイスクリームを、それぞれが好みの飲みもので流し込んだ。
気づけばラストオーダーの時間。
一体この時間は現実だったのだろうか、とおもいながら堀川の風に吹かれ駅へと歩きながら、ゆっくり心は灰色に戻ってゆくのだった。
潔くこはれて了ふ蝉時雨 漕戸 もり

