いくらなんでもあれは現実味がないとか、てんこ盛り過ぎて大味だよね、と言われて視聴率は取れないだろう。もしこれが、映画やドラマだったら。

けれど、現実に起きたことだとしたらどうだろう。なんせ、どの角度から掘り下げても、その一点だけで一遍の小説が書けるほど、いちいち<芯>がある。

まさかあのひとが、という驚きのあとに実は…とこたえあわせのような事実が、これでもかこれでもかとあきらかになるので、気にならずにはいられない。

そもそも事件が起きたはなから、登場人物が濃すぎるので「それってドラマの話?」と事件を教えてくれたひとに聞き返したほどだ。

殺人というやりかたで、ひと一人が亡くなってただでさえ深刻だというのに、事件の展開が気掛かりとかんじるのも、なんだか厭らしい気がして気が引けるのだが、これもドラマや映画を見慣れている弊害なんじゃないか、とおもえばなんだか恐ろしい。

ドラマの末尾に来週の予告が流れないと物足りない。映画に続編があるとわくわくする。これは映画、これは現実、などと簡単に慣習を切り替えられればいいけれど、それはとてもむつかしい。

 

未だ、安倍晋三氏があのようなかたちで逝去されたことすら、実感がともなわないままでいるというのに、こんな猟奇的な事件が起きてしまうと、生きている世界がそもそも劇場で、いい意味でも悪い意味でも、名まえすらついていない<街の女3>(イメージ)みたいな、しがない役者としてじぶんが生きているような妙な感覚になる。

 

ビュッフェでもないのに、お寿司もステーキもてんぷらも焼肉もラーメンもフレンチトーストも一気に並べられ、どや!と言われても怖気ずくばかりだ。

食いしんぼう丸出しの喩えで申し訳ないが、まずひとつずつ片づけていかないと。

すべてを平らげれば、おぞましいことしか想像できないとしても。

 

 

猟奇的事件も不倫も隣り合ふ夜の最後尾にバスを待つ 

              漕戸 もり

 

 

 

あの夜もこの夜も繋がっている。

多分だけど。