ホルモンやら厚切りタンやらシャトーブリアンやらレバーやらユッケやらミノやらを、4人で60人前ほど食べ終えたあと、こんな上品なものを頼んだ輩がいた。
いちばん上品と程遠いような彼だけれど、さりげに頼んで食後のデザートのごとく楚々と口に運んでいるのを見ると、雅のようなひとすじが彼のなかには流れているような気がしてきた。
抹茶のテリーヌ。
もしかしてあれは、見てはいけない類のものだったのかもしれない。
いい意味でだけど。
それにしても、焼肉の一人前とはいったいどなたの一人分の分量を指すのだろう。
あの一人前で「ああ、お腹一杯ざます」と言うひとがいたとしても、きっと帰りにラーメンでも食べているに違いない。
間違っている。
そんな小鳥のような食欲のひとを基準にしてはいけないのだ。
先日も、名古屋駅で1000円の焼肉ランチというのを食べたのだけど、焼肉の一人前の寂しさをかみしめることになった。網交換するまでもなく、網がきれいなまま終える焼肉ランチの悲しみといったら、ジョギングシューズを履いて散歩をしてきたようなものだ。
意気込んで昼間っから焼肉、という口になっているのに、一人前という名の焼肉の盛り合わせと貧相な汁物、サラダという名称になる前のきゃべつの切れ端が小鉢に添えられたのを目の前に、一気にやる気が失せてしまった。
いや、焼肉ランチを1,000円で食べようという魂胆があさましいと言われれば降参するしかない。
それでもときどき、夢が見たい昼どきだってあるのです。
吹き飛ばすやうに掃つて両腕で抱いてあなたを絡めとるまで
漕戸 もり
すきなのかきらいなのかわからない感情は、洗ったシーツを取り入れる行為で説明がつく。
