なんとなくあのときをおもいだしてしまった。
夕立のあと、夕立ちというより心情はスコールと言ったほうがより近いのだけど、畳にへばりついたふくらはぎに汗がにじむのを、他人事のようにおもいながらカップ焼きそばを食べていた。
髪は両耳のうえにそれぞれゴムで束ねられ、母の手製のサッカー生地のワンピースは、あばよくば、つぎの夏も着られるようにと、すこしぶかぶかで、うつむくとおへそまでが丸首から見通すことができた。
鍵っ子だった。
当時の鍵っ子は、体育の授業以外は、信心深いクリスチャンが肌身離さず持っているクロスのように、いつなんどきも首から紐のようなもので垂らしていることが多く、首にあたる紐の部分が汚れているのはお決まりだったが、なぜかそれが誇りのように、鍵っ子たちは汚れた紐を気にも留めず、律儀に首に巻き付けているのだった。
ところが、わたしの母はそれをゆるさなかった。
鍵を首に掛けるのは何かと不都合だとおもうから、と、裏庭に伏せてある植木鉢の右から三つ目の下や郵便受けの下にある宅配ヤクルトの箱の後ろ側とか、わたしの鍵はときどき居場所を変えながらしずかにわたしを待つ鍵だった。
だから、わたしのことを鍵っ子と知るともだちは少なかったし、鍵っ子たちのあの真っ黒に汚れた鍵の紐を掛けたことがない。
ふん、わたしはあなたたちとはちょっと違うのよ、というマウントをとるような気もちでじぶんを保っていないと、鍵っ子だと言ってはいけないような気がしていた。
紐のない鍵を、植木鉢から取り出して誰もいない家に入ると、閉め切った室内から畳の匂いが入道雲のようにもわもわと立ち上がってきた。
その途端、スコールが家を吹きつけた。ぐらりと家が揺れるようだった。
最初は風だったのに、そのうち雨が混じって降り出したので、窓も開けずにじっと外をみていた。
なにかしなきゃ。
食卓をみるとカップ焼きそばがひとつと、<れいぞうこにむぎちゃあります>の母のメモがあったので、麦茶を取り出し、湯を沸かす。
窓のとじられた家の台所で、ぱたぽた汗を垂らしながら焼そばを仕上げると、いつのまにやらスコールは弱まっていたので、世界中の空気を引っこ抜いてくるような勢いで、家中の窓を開けてまわった。
トイレや浴室や二階のベランダや父と母の部屋までも全部開け放した。
ほんとうは、汚れた紐が羨ましかった。
ごそごそと胸に手を突っ込んで、クロスのごとく汚れた紐のさきにある鍵で入る家と、この家はどこか違う気がしていた。それはたとえば、帰ってすぐに窓を開けて、そのあとスコールが来たけれど、そのままにしていて家中びしょぬれになってしまった、というような過ちが絶対起こりえない家だった。食卓のうえには、なにかしなきゃ、とおもうとき最初にやることが決められているような家だった。
出来上がったカップ焼きそばとそれから麦茶のガラス瓶とコップを、いぐさの匂いが立ち込める和室に持っていった。
和室には、なにやら大袈裟な掛け軸が掛かっている床の間があり、お客様をもてなす場所だったので、家族は食べたり飲んだりしてはいけないと禁じられていた。
畳にそのまま座り込むと、わたしは焼そばを勢いよく食べ始めた。
スコールのあと風はぴたりと止まり、庭先では、芝生が彼らを濡らした雨玉でゆだってしまうようだった。実際に家は揺れていなかったのだとおもう。スコールごときではびくともしない家で、揺れていたのはこのわたしだったのだ。
ごちそうさまを言うわけでなく、食べ終わるとわたしは母の言いつけどおり、容器を紙で拭いポリ袋に入れて棄て、麦茶のガラス瓶についた汗を拭いてから冷蔵庫にかたづけ、くちびるのあぶらで滲んだコップを洗ってふせておく。
これで、あとかたもなく和室で食べたという事実は消え失せた。
汚れた紐についた鍵を、持っていない鍵っ子ができるせいぜいの抵抗を知っているのは、ふくらはぎに残った畳の、糸にもなれないようないぐさだけだった。
あれきりだったけれど、あれでわたしも鍵っ子のはしくれとして今まで生きられているような気がしている。
ゆふだちとカップ焼きそばあれつきり 漕戸 もり
~2023年7月2日中日俳壇 高柳克弘選より
