どこかからパイを焼いている匂い(甘いほうのではなく)がしてくると、その方角を向かないわけにはいかない。もしここを、ひとつの感情も乱すことなく、しらんぷりして通り過ぎるひとがいるとしたら、そのひととは絶対にともだちにはなれないだろう。
鍵っ子だったし、そのままのつづきでなんとなく大人になり、一人暮らしをして、ボーイフレンドができても同棲という甘やかな機会には一度も恵まれず、気まぐれに婚姻届けを提出したひとと同居をはじめ現在に至る。
「ただいま」と玄関をあけると、キッチンからはちきれんばかりにふくらんだキッシュの焼ける香ばしい匂いが、「おかえり」という声よりも先に圧倒してくるようなしあわせに、まだまだ未練があるのだった。なんせ、キッシュを焼くひとには簡単になれるし何度もなってきたけれど、キッシュを焼いてくれるひとを獲得するのは容易ではない。そのうえ、わたしのために、と条件をつけると、今生では無理だろう。だからもうすっかりいい大人にもかかわらず、いつまでも未練がましく、だれかのためにだれかが焼くキッシュの香りを追いかけているのだ。
写真はサーモンのキッシュ。前菜がキッシュだなんて罪でしょうよ。前菜だけで十分。あとは、適当なワインがあればいい。キッシュを焼いてくれるひとは、こんなふうにお金で獲得するしかすべがない今だけど、こういうしあわせのために働いているとおもえば、仕事にも身が入るというものだ。
大人とは、つくづくせつない。
蛇足だけど、見ているだけでしあわせになるものは料理以外にもある。
動植物すべてのあかちゃんや、上流に湧いている清水や、夏の青空や、塗りたてのジェルネイルや、ロバートの秋山や。
大人よ、しあわせのために精出して働こうじゃないか。
駅からは徒歩10分を思い出にしたばつかりに恋愛体質
漕戸 もり
、という友だちがいます。
個人的には恋はばっさり切り捨ててゆくタイプ。
