進物を買いに出かけた。
ケーキ屋さんはいつから女子アナに負けたのだろう。
洋菓子が美しく可愛らしく甘い匂いをさせているせいで、ガラスケースのなかが空っぽにならない限り、感情は華やぐばかりである。
この華やぎは、たとえば悲しみに打ちひしがれるひとへ選ぶときも、じぶんを鼓舞するために買うときも、こころに泉が沸いているとしたら、その泉の深い深い静まりかえった底に、どうしてもぷくぷくとにじんでしまうようなものだ。
ケーキ屋さんのお店のひとも、すこしくらい怖い顔をしていたとしても、角刈りでも、肥っていても痩せていても、お年寄りでも高校生のアルバイトでも、天使にみえる魔法がかけられることになっている。
それでも、最近の子どもたちは天使になることよりも、スポーツもバラエティも戦争や政治問題にもまんべんなく一般人よりはすこし通じていて、どの方面の専門家にも重宝され、そのうえ家柄も学歴も悪くはないので、今を時めくひととの恋愛にも不自由しないことに<なりたい>のだ。
そこには、お金の匂いがぷんぷんする。
そういえば天使には、お金の話がとんと似合わない。
子どもたちが将来の夢を語るとき、もう天使では生きていけないということを、野生の感覚で嗅ぎとっているのかもしれない。
ちなみに。
わたしの幼いころの将来の夢は俳優になることだった。
真剣に文学座に通うことを想定し、東京の大学を一校受験したことが懐かしい。
東京は不合格で、地元の大学に通いながら名古屋の劇団でどさ周りをしていたのだから、まあまあ夢に近づいたほうだとはおもう。
でも、東京で俳優として成功した従兄がいるので、わたしの夢は家族や親族縁者から嘲笑され、なんなら記憶にも残らない黒歴史のような汚点のままである。
まあ夢は誰かに語るものではないからいいんだけど。
ところで、ケーキ屋さんになりたいと言っていたともだちは、今どこでなにをしているのだろう。そのことを汚点とおもっていないことを祈っている。
 
 

  日の当たる小水葱の頬が燃えている   漕戸 もり

 

小水葱(こなぎ)。水葵の別称。

万葉集では求愛の歌に詠まれているチャーミングなよびかた。

短歌や俳句は、うつくしいことばに出会うためつづけているようなもの。