消費者が花を愛でやすくするためだったり、その結果流通がされやすくなったりして、
花き業界が潤うためにかんがえられた<商標>なのだろうか。
花を贈ったり贈られたりするときに、
その花言葉を、丹念にしらべるというひとを何人か知っている。
たとえば男ともだちSは、
自身のプロポーズのときのことを、未だに酔っぱらうと話しだす。
もう、耳にたこができるほど聞き馴染んでいるので、紹介してみると
ざっと以下のようである。
薔薇を贈るのは決めていたけれど、どうも
送る本数や色によって花言葉があるらしいと聞いたので、
迷いに迷って最後は予算と相談し11本にしたのだ、と。
ちなみに11本の薔薇の花言葉は、<最も愛おしい人>である。
それまでの人生で、花など贈ったことのないようなSにとって、
いかに美しい薔薇よりも、多少萎びていようと花言葉が何より重要だったのだ。
そもそも花=薔薇としか思い浮かばないような場合、
メッセンジャーになる花言葉は、とても便利で転ばぬ先の杖にはなるのだから、
決して花言葉がダメだというわけではない。
わたしにとって忘れられない花束といえば、
20代半ばの誕生日に、当時の恋人から貰った花束である。
すこし年下の恋人だったので、わたしの誕生日なのに、
わたしが日時を決め、知り合いのソムリエがいるイタリアンレストランを予約し、
おまけに恋人は下戸だったのに、わたしひとりでワインを二本ほど空けて、
Mくんはご馳走してくれるだけでいいから、とそれで十分ご満悦だった。
酒も飲めば席を立つ機会も増える。
数回目のトイレから帰ってくると、すでに食器類は片づけられており、
テーブルのうえに、黄色いバラの花束がどさりと置いてあった。
恋人もトイレに行って遅れて戻ってきた、というような、たしかそんな演出だった。
わたしは黄色い薔薇の花がすきだと公言していた。
それは、その恋人に向けて言ったのではなく、恋人と出会うまえから
子どもが将来なりたいものの欄にパン屋さん、と書くようなもので、
友だちにも家族にも云うような、自己紹介みたいなものだった。
ああ、覚えてくれていたの、という甘さと、
ここのお会計だけで結構するのに、あなたこれはだめでしょうだめだめ、と
散財させてしまったことに恐縮するばかりで、
ごめんねという気もちのほうが勝ってしまっていたせいか、
今でも記憶にのこっているのは、
嬉しいというよりも、申し訳なかったという気もちである。
ある日、黄色い薔薇の花言葉をしらべてみた。
件の誕生日の花束の意味を知りたいというより、
すきな花がどのような花言葉を持っているのかを、知っておいたほうがいい、
という気になったからだった。
黄色い薔薇の花言葉は、
友情、平和、愛情の薄らぎ、別れ、と書いてあった。
※諸説あり
それ以来、あまり大きな声で黄色い薔薇がすきと言いづらくなってしまったのは、
言うまでもない。
勝手にすきになって勝手に失恋してしまったような、複雑な気もちのまま、
そのうちそんなことも思い出さなくなってしまった。
その恋人とは、それからもとても仲良しだったのだけど、
いろいろあってさよならをしてしまったのだが、
あの黄色い薔薇の花束については、今でも謝りたいくらいである。
費用のこともそうだけど、そんな花言葉を贈らせてしまってという意味で。
写真はお祝いの仕事での装花。
感謝という花言葉のお花を集めてアレンジしたそうだ。
いっそのこと、どんな花でも花言葉は感謝ということにしておけば、
面倒なことはないのに、と
ほろ苦い思い出とともにおもうのだった。
氷山の一角に咲く花に合ふ心根透けて硝子の花瓶
漕戸 もり
