ありよし、と検索すると 有吉弘行 と出てくる令和ですが、
いかがお過ごしでしょうか。
ここにきて有吉佐和子ブームという。
有吉佐和子の概ねの書籍は、実家やこの家のどこかに積まれているはずだけど、
自他ともに認める本の虫ではあるが、梅雨の本の部屋に長く滞在していると、
からだのみならずこころまで雨季になってしまいそうになるので、
ポチっと購入してしまった。
有吉佐和子「非色」河出文庫。
 
随分前以来の再読なので、今読めば相当古めかしくかんじるのだろう、と
まったく期待をせずに読みはじめた。
ところがそれがそうではなかった。
残念なことに、期待以上というか、平成のあのときよりも
(書籍の初版は昭和39年でしたが、わたしの読んだのは平成たしか…
7.8年前後の角川の文庫?でした)
もっと痛く、冷たく、暴力的にみえてくる。
この暴力は、感じかたは変わっても、
昭和から令和に至る読者の神経をなぶりつづけているのは確かだろう。
令和の読者(わたし)が、昭和の読者と違うのは、
当時は許されていた差別用語がふつうに登場することに、
おどおどしているこころの気配が、気もち悪いことくらいである。
あれもダメこれもダメと規制ばかりで、平成後期以降の小説が
原発や差別や貧困や、その他少々込み入ったテーマを描いているのに、
どこか清潔感が漂うのはこのせいだ、と改めておもうのだった。
 
ああ、あのころはこんなふうだったけれど、
令和の今はなんて素敵なんざましょ、とかんじたかった。
そうして、古いよこれはもう、と古本屋に売りさばきたかったのだ。
内容は、是非お読みいただきたいのでここでは端折るけれど、
人というのは、ほんとうにどうしようもない生きものだということを、
まざまざとみせつけられる。
どうしようもないし、しょうもない。
わたしもあなたも人であることに、途方に暮れている。
わたしたちはかわっちゃいない。
そのうえ、ぜんぜんわかっちやいない。
有吉佐和子は、すばらしい筆力で
敢えてわたしのような馬鹿頭でもすいすい読みすすめられるよう
ここ(わたしの理解力のなさ)まで降りてきて、物語をひろげてゆく。
腕力ではなく風のひと吹きのように、
沼にぽとんとわたしを落として、さあ、かんがえなさい、と突き放す。
かんがえなければ。
有吉ぃぃeeeee!
はぁぁaaaaa!
 
今日から出張。
文庫を鞄に入れて持っていきます。
 
 
     牛冷すいちばん安いみづを購ふ     漕戸 もり
 
牛からのcow。
じぶんひとりご満悦である。