実際コロッケをつくってみるとわかるのだけど、
たねを揚げているとき、
おいおいそんなに吸わないでくれよ、と
あまりにものあぶらの吸いように待ったをかけたくなる。
そもそもひき肉も入れているから、
なんじゃこらレベルでのハイカロリーさを目の前にして、
料理をするだけでおなかいっぱいになる。
そのうえ、コロッケは大変手間がかかる料理だということを、
牧歌的な佇まいと食材の親しみやすさに、ついうっかり忘れてしまう。
今日の夕飯はコロッケです、と
今日の夕飯はてづくりコロッケです、というのは
言うのも聞くのも雲泥の差だ。
もちろん、お肉屋さんやコンビニで買うコロッケも悪くはない。

偶然前を通ったお肉屋さんで、どれどれお土産に買っていこう、と

わら半紙みたいな紙に包んでもらうコロッケや、

深酒をしたあとの深夜、

背徳感にひたりながら齧って帰るコンビニのコロッケには、

家庭でつくるコロッケが到底太刀打ちできない役割がある。

そういう意味での、
今日の夕飯はてづくりコロッケです、なのだ。
馬鈴薯を茹でて皮をむきマッシュをする。
そのあいだに玉ねぎをみじん切りにしてひき肉と炒め、
それらを合わせてたねを整えてから暫く冷蔵庫でねかせると、
やっとのことで衣にくぐらせるまでにたどり着く。
それからそれから…。
あぶらに揚げるまでもなく、もうすでにお腹がいっぱいじゃないか。
 
本日のお弁当は昨夜のおかずの残りである。
手間も暇もあぶらもじゅうぶんに注いだてづくりコロッケは、
冷えても旨い。
いや、冷えてからこそ本領発揮する。
残りものなどと軽率に言ってはいけない。
わざわざお弁当ぶんを見越してつくった肉感的なおかずなのである。
 
 
          
  雲を見て夏料理見てきみを見て  漕戸 もり
 
 
友人が京都伏見の三十石船で京料理と旨い日本酒をたのしんだそう。
聞いているだけで夢みたいだった。