「微文積文」を読む。

第三号は27名の方々が参加されていて、

一冊で、短歌を主軸にエッセイや書評、写真や絵画までも楽しめる。

ひとや電車を待っている時間に読むというより、

休日の午後などに水仕事等をひととおり済ませ、それでもまだ、

早めの晩酌にも時間があるようなとき、手に取りたくなるような

読みごたえのある一冊に仕上がっている。

書く行為は、読むひとがいるという前提に基づく。

たとえ日記であれ、自身が読者になりえない日記などただの備忘録である。

日記の読者がじぶんひとりというのは、本人もそのつもりなのだから良しとして、

そうではないこと~仕事の台本であれ、ペンを持った以上、

ひとりでも多くのひとに読んで欲しいとおもわないはずがない。

同人誌の良いのは、読むひとが書くひとより多い可能性が高いということに尽きる。

書くひとの耳に、読んだひとの具体的な感想が届かなくてもいい。

読むひとが確実に27名はいるというイメージが、作家を生きづかせる。

読む方は読む方で、読んでいるだけだというのに、不思議と

一緒に冊子をつくっているような感覚になるものだ。

そういえば、と、「かばん」に参加していた約8年をおもいだした。

「かばん」には購読会員という、読むだけのひとも多くいたのだが、

おもえば、講読会員こそたいせつなメンバーなのだった。

 

さて「微文積文」にもどそう。

早めの晩酌の前にでも、と薦めておきながら、

若輩者にはそのような優雅な時間は滅多にないので、

日常の活字中毒の疲れを活字で癒すべく向き合ってみた。

 

海老原 愛 「夏の傍点」 より

 

寂しさを寂しさのままもつことのできない私 渓谷に行きたい

 

ここで、私 と表しているものは

普段わたしたちがじぶんを指す<私>とは違う。

寂しさを寂しいままに受け入れられない<がわ>の要素をふくむ記号の 私 。

記号の 私 は<がわ>から、ちゃんと寂しさを寂しさのまま持っているような

渓谷、~山と山のあいだに川を挟んでいるような谷~に憧れる。

渓谷の形状をおもうとき、寂しいをどうしても歪曲してでしか受け止められない

私 の寂しさをかんじずにはいられない。

 

茉莉花の溢れこぼれて真夜中は言葉が私そのものみたい

※ふりがな付 茉莉花<まつりか>溢れ<こぼれ>

 

私 の記号化がここでも冴える。

言葉が私 と言い切っている。

ひとくくりに言葉と言っても、いろいろな言葉が思い浮かぶが、

茉莉花の細かな感じが、散らばっていることを想像させるし、

それが真夜中であるということをおもえば、

目が冴えた深夜に綴る歌や手紙が、うっかり言い過ぎてしまうことと合致する。

要するに、ナルシシズムになりすぎるのが 私 だとしても

記号だとおもえば、これは主体にとどまらず、

あなたにもきみにもわたしにも既視感はちゃんと届く。

 

私 の対のように出現するのが 君 である。

 

鍵穴に棲む闇のあり君の死もいつか来ること忘れて生きる

ベランダで線香花火をくっつけて君とつくる火 夏の傍点

※縦書き  火 の右真横に 、

伝わること 伝わらないこと 君の吸う 煙草の煙の 消える領域

君はもう秋だと言えり 夕暮れは気づかなくてもきっと寂しい

 

相聞歌と安易に決定することを迷う。

甘いとかせつないとか、だからだよね、と

簡単に留めておいていいわけないよなあ、と読み返すほどおもえてくるのだ。

私 にも<がわ>があるとしたら、当然 君 には君の<がわ>がある。

「右岸」「左岸」という、辻仁成と江國香織が対のように書いた小説がある。

男女のそれぞれの<がわ>から描いた作品だ。

さわりを読めば思い出せるだろうが、こまかなデティールは忘れてしまった。

けれど、どうしても 私 と 君 は交わることができない、

という手ざわりだけは消えないままでいる。

 

この4首に、

君 と呼び掛けているのに、遠景を眺めているような気配をかんじるのはなぜだろう。

それは 私 が記号に逃げ込んで 君 を真向いから見ていないからなのだろうか。

きっとそれは、

上から目線でもない、恐々でもない、ただ<がわ>からかんじているからなのだろう。

そういうことが、寂しさを寂しいままで持てないことを一層明らかにしているようで、

君 の登場する一連でやっとそれが腑に落ちるのだ。

 

みずうみの開かれてゆく きみといてたったひとりのわたしがうれしい

 

そのようにして、きみとわたしに辿り着く。

君 ではないきみと、私 ではないわたしの登場で

連作が一気に日常へもどってくる。

主体が具体的になることで、わたしたちはやっと

我がことから、主体の日常を鑑みることへ開放されるのだった。

 

20首の連作なので、ほんの一部を摘んで述べる感想では、

作品のすべてを伝えきることはできない。

ただ言えるのは、前述の小説のように、細部はおもいだせないのに

読後の手ざわりは永遠に消えないのとおなじく、この作品の印象も

おそらく残り続けるたぐいのものだと確信できる。

短歌を連作する場合、これはどの歌人も目指すところで、

そのお手本のような作品だった。

 

ひゃああ。

27分の1しか紹介できず。

明日も早よから芝刈りなのでお許しを。

※🎤です

ほかにも気になった歌人の歌を挙げておきます。

 

 

惜しみなく木々はひかりを振り撒きぬ幼子のみの使ふ遊具に

触りたきかたちなすゆゑいつそ手は水辺に置いてゆかむ夕べ

 

                   吉澤 ゆう子 「猫のスタンプ」 より

 

 

ひと月分の新聞紐に括りたりひと月分の出来事重し

世界中から愛されやうとされまいと人は死ぬなり 憎まれてゐよ

                    

                   馬場 昭徳  「父さんの帽子」 より

 

 

せまい席正職員が身をよじりわれのうしろを通り過ぎたり

外線をとるのが早い二十八歳ああ正職員の手にはかなわぬ

 

                   田中 徹尾  「理由」  より

 

 

~(略)カットのうち五枚の写真は九十三歳の母がこの一年の間に描いた

日本画を撮影したものである。第三号のゲラを見せたら、満足そうに微笑んでくれた。

 

                   田中 徹尾  編集後記 より

 

 

 

家族詠あり、職場詠あり、編集後記まで、温かな活字で満載。

これだから活字中毒から抜け出せません。