先日、持病を抱える知人より
医師からあと9年の命だと告げられたことを聞いた。
あと半年とか、もってあと1年、ではない。
あと9年である。
なんとも返事に窮してしまった。
いやいや、
半年とか1年のほうが潔くていいといっているのではない。
ましてや残された年月が短いほうが、腹が決まるというものでもない。

あたりまえのことだけど、1年でも1日でも数時間でさえ長く生きていて欲しい。

けれど、あれから、<そっか>と言ったそのあとを紡げないままである。

 

9年という年月を考えるとき、ひとは過去を振り返るやり方でしか測れない。
0歳から9歳。10歳から19歳。20歳から29歳…。
こうして改めてかんがえてみると、そのどれもが単純に年月などでは測れないのだった。
みっちりと詰まったそれぞれの9年。場合によってはすかすかの9年。
そういういろいろな9年を積み重ねて人生がある。
長いのか短いのかすらわからない。
長ければいいというものではなけれど、じゃあ短ければいいというものではない。
ただ、わたしと知人のこれからの9年は、
あと9年、と宣告された9年と
明日のことはどうなるかわからないけれど、宣告されない9年の、
似たようで全然ちがう種類の9年を生きるということだ。
 
夜眠るとき、ひとりで電車を待っているとき、雲のやたら千切れている空をみたとき、
子どもたちの歓声を聞きながら、近所の小学校のわき道を歩く平日のお昼どき、
宣告された9年を生きる、ということを、
ときどきおもいだす9年が過ぎはじめている。
 
 
     長椅子に敷くハンカチの表がはあなたは点のやうに座りぬ
                       漕戸 もり
 
 
あなたは点のように、わたしは線のように座って、
もうすぐ水無月。
月も体もいれもの。