じぶんの状態を測るバロメーターのひとつに、
しあわせなひとやことがらの近くにいて、そのしあわせをいっしょに感じられるか否か、
というのがある。
もしそのとき、健康に不安を抱えていたり、家族や人間関係がうまくいっていなかったり、
もっと現実的なことを挙げれば、たとえば金銭的に悩みがあったりすると、
じぶんとは関係のないところで起こるしあわせは、どんな種類のものであれ、
共に分かち合う以前に憎く思えたりする。
そういうときは危険信号だ。
ああ、今のじぶんは相当落ちているぞ、やばいやばいといって
駆け込むような病院的な存在があればいいのだけど、
こういうときにそんな都合のいいものはない。
だからほとんどは、憎んだり妬んだりいじけたりした大人げない感情そのままに、
顔だけは笑顔を湛えにこやかにしているのだ。
これが非常にきつい。
だれかのしあわせのまえで、そんな感情を持つことほど情けないことはない。
もっと惨めなことを告白すると、勝ちけ負ではないけれど、
じぶんがいかにに弱っていようとも、じぶんときわめて関連のないしあわせに対し、
心から<よかった>と思えれば勝ちで、もし胸のなかで1㎜でもそう思えない場合は負け、
のように、バロメーターといいながら結局そのつど勝負に挑んでいる。
とすれば、こんなじぶんは最初からうすよごれていると言ったほうが正しい。
けれども、この手の勝負に負けるような、とりわけ深くじぶんが落ちているとき、
あのようなしあわせは、手を差し伸べてくれるどころか、
もっともっと深みに突き落とすという作用があるので、
これ以上醜いじぶんにならないためにも、その場所から突風のように逃げ出すのだった。
 
ところが。
仕事の場合、このバロメーターや勝負が通用しない。
じぶんのプライベートがよっぽど重篤(生命や事件に関する物騒なことなど)でないかぎり、
お祝いのときは心から嬉しく、お別れのときは心からせつなく、
イベントのときは心からたのしい。
もちろん、眉間に皺を寄せ議論をかさねて挑む本番においてのはなしですが。
仕事、というフィルターを通すとそこにAIに似たじぶんが出現する。
<買ってもらった>瞬間から、自動的にプライベートのじぶんは抹消されるしくみ、
といえばこの感覚に近いかもしれない。
 
連休はお祝いごとが多い。
仕事が終わってからのじぶんはどうであれ、しあわせをかたちにすることに尽力します。
 
   心臓は♡の駒でときめきは生きてるかぎり不可欠になる 
                   漕戸 もり
 
 
しあわせ以外何ものでもないふうせん。
束ねて持てば飛べそう。