言われてみればそうだよね、ということはたくさんある。
紅茶の売り場には、茶葉そのままのお品より、
ティーバッグになっている製品のほうがたくさん並んでいる。
日本茶やコーヒーと比べても圧倒的に紅茶がティーバッグ市場なのは、
普段真剣に考えたことはないけれど、言われてみればそうだ。
我が家にフレンチプレス式のティーサーバーはあるにはあるけれど、
茶葉の後始末が面倒なので殆ど、というかどこに片づけたかわからないほど
長らく使っていない。とはいえ茶葉のままの紅茶は、なぜか
海外旅行のお土産物の3回に1回くらいの高頻度でいただくので、
そういうときはちょっと失礼して、茶こしで淹れて飲む。

お土産や贈りものとしていただく缶入りなどの紅茶は、

(ダントツでフォションが多い)驚くほど高価なのに、

緑茶の色がこびりついているような茶こしで、

めちゃくちゃいい加減に淹れるので、フォションはほんとうに気の毒である。

 

先日、打ち合わせで訪れた東急ホテルのラウンジで紅茶を頼んだのだけど、

最初の一杯は目の前で給仕のかたに淹れていただけるのだが、

二杯目からは自分で傍らのポットからおかわりを注ぐ際、

いちいち紅茶用の茶こしをカップにセットして淹れなくてはならない。

これが結構面倒である。

先ほど述べた柄杓型の貧乏くさい茶こしならまだいいのだけど、

ぶらんこのように安定しない取っ手のない茶こしを

注意深くカップにセットするという所作は、考えただけでもげんなりする。

こういうときは、ぶらんこ茶こし(当然勝手に付けた名称です)は使わず

紅茶に混じる茶葉も啜ると諦めている。

ティーバッグが主流になるわけは、まあなんとなくわかってきた。

 

一方、珈琲はどうだ。

紅茶とは真逆で、

言われてみれば珈琲版ティーバッグは滅多に見かけない。

紅茶の例えでおわかりのように、

珈琲メーカーなんていうものは最初から我が家にはない。

みるからに洗いにくそうだし、なによりも場所を取る。

そこへ登場したのが珈琲ドリッパーなるものだ。

これは先ほどのティーサーバー同様、我が家のどこかにはある。

あるのだけど、さてどこにだったか。

ただこちらは、洗うのが面倒というより、いつしか

ひとりひとり湯を注げば、旨い珈琲がいただけるドリップ珈琲という

優れモノがこの世に浸透してきたので、みなさまも身に覚えがあるように、

ドリッパーがなくても困らなくなったにすぎない。

ただ。

ひとつ残念なのはゴミが出る。そこでやはり、  

 

味わい < ゴミが出ない = インスタントコーヒー

 

という方程式に沿って、専らインスタントコーヒー一択となっている。

 

それで例の<言われてみれば>だ。

珈琲版ティーバッグ(紐付きでゆするタイプ)はみたことがないのだが、

なにか深い理由があるのだろうか。

素人なりにかんがえてみると、

抽出しにくそうだし、高そうだし、バッグに大量の水分を持っていかれそうだし、

なんとなくコーヒーにはふさわしくなさそうではある。

 

それはそうなのだが、遂に珈琲版ティーバッグをいただいた。

これがどうしてなかなかいい。

抽出もしっかりして香りもよい。

ゆすってバッグを取り出してもいいし、

濃い目がお好きならバッグを入れっぱなしにして飲むのもたのしい。

製造元は、喫茶店文化の発祥地である一宮市のベースコーヒーさん。

通販もしているみたいなので、遠方からもお取り寄せができそうだ。

写真は、パッケージに<和菓子とコーヒー>と記されている珈琲版ティーバッグ。

裏面に羊羹と合うと書いてあるので、

早速コンビニのレジ横に並んでいた60円の一口羊羹を買ってきた。

 

優勝。

 

言われてみればそうだ、ということに

まあそうだよね、と納得がいくことと、

いや待てよもしかして、とふと立ち止まることとある場合、

どちらがいいともわるいとも言えないけれど

こと珈琲に関していえば、ふと考えてみたら世界がひろがったという例だった。

まだまだ試行錯誤の途中だとしても、

手軽に美味しくいただけるための選択肢が増えるのは喜ばしい。

 

それにしても。

一口羊羹はコンビのレジ横にないと物足りないくらいの存在感を、

いつから持つようになったのだろう。

言われてみれば、というのも今さらなほど当たり前になってしまった。

そういう意味でいえば、一口羊羹は紅茶や珈琲より

きっぱりと<日本文化>なのだとおもう。

その潔さは60円という値段にも表れて、そのうえ己に合う珈琲までも生みだしてしまった。

まあ、60円ではなく600円でも6,000円でもそれはそれに越したことはないのだが。

 

お茶の時間は、こんなふうにたわいもないことを考えて過ごすのが正しいという

言われてみれば、お手本のような午後でございました。

 

 

   少年の更に甘さのとれるまで削ぐ約束の果ての妖精

                 漕戸 もり

 

 

いつも少年の心を持っていたいとおもっていたら

もうすっかりおじさんのわたしである。