街が賑やかになるというよりも、街全体がゆすぶられているような朝。
午前8時過ぎに街頭演説がはじまった。
地下鉄の路線がふたつ通っている交差点の近くに住んでいるので
まもなく選挙にはいるこのころは、さまざまな政党の議員が
時間をずらしながら朝に夕に演説ぶる。
選挙前の小手調べといったところか。
この春は統一地方選と議会議員選挙が重なるので覚悟をしなければならない。
このせいで各関係部署から「鶯が足りない」とか「鶯の手配」だとか、
まるで弥冨の金魚卸売市場みたいに、金魚ならぬ鳥の業者さんが調達を
依頼してくるような声が聞こえてくる。
選挙の鶯は人だ。もっと辛らつに言えば<声>だ。<懇願する声>である。
わたしも随分と鶯になった。最近でこそもっぱら派遣側になったけれど、
それでもなんとなく時代にそぐわないかたちでのお願いのやり口に、
なぜか申し訳ない気持ちになってしまう。
選挙カーに乗って候補者名を連呼する。
ごめんなさいね、すこしだけうるさくします、夜勤のかたが眠っていませんように、
夜通し泣いて泣き疲れてやっと眠ったあかちゃんとママがおきませんように、
そんなふうに心で謝ったり祈ったりしながら、でも仕事なので連呼する。
車を運転するのは地元の道路事情を知り尽くした地元のおじいさんやおじさんだ。
一方通行がいりくんでいる住宅の小道を、ルービックキューブをくるくるとまわして
完成させてしまうような才能がきらきらとはじけるので、
数週間いっしょにいると、おじいさんやおじさんたちの顔つきが
みるみる精悍になってゆくのがわかる。
選挙が終わると鶯の仕事はひとまず終了なので、
投票後の結果は報道で知るところとなるのだが、当確はともかく
選挙カーを運転していたおじいさんやおじさんが、
また今まで通り地元の名もないおじいさんやおじさんに戻ることをおもうと
毎回なんともいえない気もちになった。
街を車で走りながら候補者の名まえを連呼してゆくのは、
令和の時代にそぐわない。いやいやほんとうはいつの時代にもそぐわないのだとおもう。
もっとやることがあるだろう。
やることがわからないからとりあえず叫んでおこう、と
手っ取り早く体裁だけ整えてきた歴史が今をつくっている。
けれども今年も「だれでもいいから鶯できるひとはいないか」という声は、
こんなふうに気後れしがちなわたしのところへもくる。
政治は政治を担うひとがいちばん得をする仕組みである以上、
こんなちいさな違和感も、又、新聞を賑わす気味の悪い違和感
(原発やオリンピック関連や宗教の暗部などなどきりがない)
も消えることはないのだろう。
そういえば鶯は、春告鳥とも呼ぶ。
意外にも、あたたかくなってうれしいから鳴くのではなく
鶯は鳴きながら、温かさから逃れるように冷涼な土地に移動してゆく。
鶯に付いていけばわたしたちは震えるばかりである。
それは知っておいた方がいい。
まったく、
世の中は知らないと損することばかりだ。
先生と呼び合ふ人らの足裏に瀕死の桜艶やかにあれ
漕戸 もり
花束をいただいた。
もう一週間。まだ一週間。あと一週間。
すきでいさせて。
