なんとなく落ち着いた昆虫食ブーム。
昆虫食の自販機に商品を補充しているのを見るのははじめてだったので、
撮影させていただいた。
こおろぎ、カブトムシ、サソリ、タガメ…。
ハーブやきのこのように、食べられるものは口にしてみようという
チャレンジ精神なのか、コロナ禍という未曾有のパンデミックを
体験したあとほのかに漂う不安感から、
サバイバルの方向に気もちがむかっているのか?
節操があるのかないのか、もうよくわからない。
食べる虫といえば言わずと知れたイナゴだ。
長野方面の道の駅などでみかけるのがイナゴの佃煮。
嘘か本当かわからないが幼いころ
山深い地域のひとびとが先人の知恵で、たんぱく源として
イナゴや蜂の子などを食べているのだ、と父か母かそれともお土産さんか
忘れてしまったけれど、聞いたのをずっと信じている。
今でもごくまれに、いただきものだといって食卓にあがる
イナゴや蜂の子の佃煮だけど、どうも塩味が強すぎるのと、
佃煮という地味なフォルムのため、最初はそれなりに盛り上がるのだが、
是非リピートしたいとか、忘れられない味、とはならない。
虫を食べる、といっても佃煮のように醤油と砂糖で
元々の味がわからなくなるほど炊きあげるのとは趣きが違うのが
令和の<昆虫食>だ。
揚げたり乾燥させたりして、ぽりぽりとスナック菓子のように食べたり、
粉末にしてクッキーやパンの種にまぜて焼いたりするらしい。
佃煮の根暗に対し、あっけらかんとして地に足が付いていないというか、
山深い地域のひとびとの栄養源云々というようなやむにやまれぬ事情もなく、
虫を粉にしたりそのまま柿の種のように食べるのは、
あかるくてふざけているみたいにみえる。
みえるというか、実際ふざけている。
コロナ禍で、わたしたちはどこか箍がはずれてしまった。
どことなくよそよそしく、個人主義でまとまりがなく
正しいとか間違っているかなんて、実はだれもわかっていないことを
実体験として知ってしまった。
生きている時間に有限があることも、これでもかと叩き込まれたので
大抵のことは許そう(犯罪を除いて)という許容範囲みたいなものが
おおきく広がったような気がする。
そういうもののひとつとしての<昆虫食>なのだとおもう。
昆虫食の自販機の補充の様子を眺めていたのだけど、
待ち合わせの時間が近づいていたので、買わずにその場を後にした。
生きている時間は有限なのだからなんでもチャレンジしてやろう、という場合と
なんとなく怪しいもの(ひと)には近づかないでおこう、という場合があるとしたら、
この場合は後者だった。
正解はだれにもわからないけれど。
虫を食べ春雨を食べたましひの時計の針がすすんでしまふ
漕戸 もり
