落椿が点々と連なっていたので、花をたどって歩いてみた。
気分はヘンゼルとグレーテルだ。

花は、白く光る小石ではないけれど、

記憶にある花びらのやわらかさが、くったりと、でも

しっかり花のかたちを保ちながら、

まだ生きているように感じるのはとてもドラマチックである。

それは踏まれた跡があったとしても、
岩や土やくすんだ緑のなかでひときわ<うつくしい>。
 
<うつくしい>の定義はむつかしい。
特に、顔や姿そのものより生きかたをふくめての<うつくしさ>は
こんなふうにぽとりと花ごと落ちてしまう椿を見ていると、
恐れ入りました、と伏したくなるくらい見事な<美>であるような気がしてくる。
土に果ててまで、なかなか花であることをやめないことと、
往生際が悪いということは違う。
どういうわけだか、落椿の有り体をもしそんなふうに言うひとがいたら
言ったひとのほうこそ白い目で見られると相場は決まっている。
…のはずだけれど、
どうだろう。
つい先日、某経済学者が「老人が自動的に居なくなるシステム」について
言述したSNSを読んで、ただ単純に<うつくしさ>について
述べているだけの牧歌的なわたしの心象にも、知らず知らずのうちに
影響を受けてしまっているのではないだろうかと、
おもわずにいられないのだった。
 
生きかた、と先に書いたけれど
生きかたとは、人間が勝手に椿に当て書きをしたようなところがあって
もうすこし花そのものに近づけてかんがえてみると、
<散りぎわにみるうつくしさ>としたほうがわかりやすい。
桜のようにはらはらと散る散りかたも、それはそれで<うつくしい>。
一方で、椿みたいにぽとりと落ちてしまう散りかたも<うつくしい>。
花の散りかたには、わたしたちの羨望が入りやすい。
その羨望に、姿かたちでないものが確実に存在している。
 
「老人が自動的に居なくなるシステム」について
対抗できる持論も浮かばないけれど、先に書いた
<往生際が悪い>のは、ほんとうに醜いことなのだろうか。
写真の<よごれた>落椿のことを、荘厳にみえるからといって
往生際が悪いのといっしょにするな、と断じるのは
某経済学者となんら変わらないのではないか?などとおもえなくもない。
はぁ。。。
頭が悪いというのはまことに情けない。
酒飲んで寝よ。
 
 
 
     名があれば駆け寄るだらう落椿    漕戸 もり    
 
 
季語 落椿 を使った名句が溢れているけれど
恥をしのんで挑戦してみました。