バートバカラックの曲で、
聴いたことがない作品を探すのはむつかしい。
だからか手作業などをしながらYouTubeを聴き流していると、
手がいちいち止まってしまう。
この曲にもあの曲にも、それを聴いていたときのことが頭をよぎる。
歌詞のないインストメンタルでも、というかむしろそういう
映画音楽のようなもののほうが、当時の風景はよみがえりやすい。
今回バートバカラックが逝去されたのをきっかけに、
こんなふうにくりかえして聴いているのだけど
知らない曲がない、というのはすごいを超えて
もはや脅威だとおもう。
 
それにしても、
このごろ毎週毎週だれかを追悼していないか。
すきなひととは、生きているうちに
できるだけ会っておきたいとおもうのだけど、
こんなふうにすばらしい<作品>を遺されてしまうと
会わない、という選択もありなのか。

わたしの年齢のせいもあるのだろう、もしかしたら

会わないほうがよかった、或いは、会わないでよかったということも

実はたくさんあるのだ、とおもってしまうことはなんだかとてもさびしい。

 
バートバカラックの曲のなかで、
あなたにとってどれが一番か、と尋ねられても
音楽にはその時々の心情というのも絡んでくるので、
なかなかかんたんに即答できるものではないけれど、
このところ聴いているなかでは「愛のハーモニー」が気に入りである。
いつ頃の曲なのかを調べてみたらもう37年前だった。
驚くわ。
この曲は歌詞もいい。
YouTubeでディオンヌ&フレンズのライブバージョンを観ていると
なにかわけのわからない熱いものがこみあげてくる。
なんだなんだ、この熱のようなものの正体は。
バートバカラックの顔すら曖昧だと言っている
この日本人のつまらない女(わたしです)の感情をうごかしたりして、
元々かのひとは、
生きている次元がちがう実体のない生命体かなにかだったのだろうか。
わたしたちが生きている限り、
普通に暮らしていたら聴かないわけにはいかない、
バートバカラックの音楽とはそういう種類のものなのかもしれない。
さよならだけれども、作品は遺っている。

歴史に刻まれる芸術家、たとえばバッハやベートーヴェンらが

死後語り継がれているように

きっとその名は、というよりその音楽はのこりつづけてゆくはずだ。

そういう類の才能が、たくさん生まれた時代の人の寿命が尽きるのが

ちょうど今ごろなら、わたしたちは貴重な経験をしているということになる。

 

わたしが生きているうちに会いたいというのは

<その人物>に、ではなく、<その才能>に、なのかもしれない。

そんなふうにしかおもえないのは、たしかにさびしい。

けれど、それはどこか風に吹かれている心地で

例えようのない身軽さを知ることでもある。

まだまだ青いのぉ、と言われつづけてきたけれど

言う側に近づきつつあるのだろうか。

青。

おもえばきれいな色だから、もうすこし言われる側にいたいのだけど。

 

 

  だれのかもしれない靴の足跡に生かされてゐるふゆのあしもと

                漕戸 もり