やはらかな芯をひらきて白菜の半身同士凭れてならぶ
       (2023年2月12日中日歌壇 島田修三選   漕戸 もり )     
 

 

最近投稿できていなかったので、おいこらさぼるな、と
島田先生から叱られたおもいがする。
抒情とは、どんなに苦しく惨めなことを詠もうとも、
今まさにその渦中にいると、なかなか書き記すことはむつかしい。
いやいやそれでは、病に臥しつつも書くことをやめなかった偉人
(たとえば正岡子規のような)
のことはどう説明するんだ、とおっしゃるむきもありそうだけど
芽すら出ていない、ましてや何が生る種かもわからないような人間が、
生活のつぎからつぎへふってわいてくる、
どちらかといえば血なまぐさい事柄に追われているときは、
花びらや木匙や公園や水やそのほかの<風景>を
こころに置き換える雅な作業など、
まっさきに自動制御スイッチを作動させるしかないのである。
生活、といううすのろ(by 佐野元春)と縁を切るわけにはいかないのだ。
 
そういえば、数々の偉人は病に臥っていなくても
自ら命を絶ったりして、わたしごときが言うような血なまぐささの何倍もの
血みどろの苦悩と闘いながら秀作を遺している。
逆に文学に身を置くということが、うすのろとかかわりを絶つということならば
なんとなく合点がいくような気もしないではないけれど、
生活をないがしろにした代償が秀作だとしたら、
わたしのめざすものとしては、なんだか違うおとぎ話のような気がしてならない。
目指すだなんて大げさだけど。
ただ共有したいだけなのに、共有というのが
もしかして今いちばん困難なことなのかもしれないのだ。
 
 
 漬物と酒一升と夭折のひとの遺した歌の足りなさ   漕戸 もり
 
 
なんだか寂しいのぅ。