歌人の辻聡之さんといえば…
 
  おとなには屈しないといふ顔のままおとなになつてゐる辻聡之
       荻原裕幸 歌集「リリカル・アンドロイド」(書肆侃侃房)より
 
という短歌で一躍有名になったので、
実際辻さんにお目にかかったことがない方でも、それぞれのイメージで
「ああ、あのおとなに屈しない顔のね」という認識で広められている(個人感)。
 
その辻さんが、おなじ1983年生まれの歌人や批評家さんたちと
「フワクタンカ83」という冊子を発行した。
<フワク>には、
あたかも児童書のなかの<モモ>ちゃんや<アカネ>ちゃんのような
こどもなのにおとな顔負けの洞察力を備えている印象がある。
これは名探偵コナンの「見た目はこども、頭脳はおとな」と
言い切ってさばさばしているのとはちょっと違う。
コナンのように、周知の事実としてのそれではなく
事実としてはじゅうぶんな<不惑>なのだけれど、
当の本人たちがそれを名乗ることへの照れ隠しがあっての<フワク>なのだとおもう。
だから、モモちゃんやアカネちゃん的な
苦悩やそれに似たものを整理、或いは整理できなさは<フワク>を
ついうっかりと超えてしまうのだ。
そうやってかんじる不器用な<不惑>は、しみじみといい。
 
フワク14名の才能あふれる短歌や論評のなかから
今日は冊子を購入させていただいた辻さんの短歌を読んでみます。
 
連作タイトル「独身」10首。
歌人荻原裕幸さんが絶妙な表現で言い表した
<おとなには屈しないといふ顔のままおとなになった>辻さんが
ここには期待通りいる。
 
 
 24時間フリーのジムの夜に来て筋肉の話す声を聞くなり
 
辻さんの近所に住んでいるから
ああ、あそこのジムね、と想定して読んでみる。
するととっても味わい深い。
24時間フリーと言っているのに夜なのだ。
短歌を詠むという文化人なのに、生きるためなのだろう
サラリーマンという枠組みにいる。
自由、とわざわざ許されているのに、深夜でも昼間でもない夜にゆくのだ。
夜にしか行けない、とも読める。
筋肉の話の内容など、もはやどうでもいい。
それはまるでメロディーのようにただただ聞く。
自由といわれても、そんな簡単にフリーにしようがないのが
<フワク>につながってゆくとしたら、
もしそれをわかって詠んでいるとしたら
単なる手練れとしか言いようがない。
 
 
  すごいがんばってるなあ、自分 労働を甘露のごとく舐めて暮らせば
 
ひらがなで言い寄られても<モモちゃん>感は溢れくる。
それで、後半漢字だらけで吐露するなんて完ぺきな仕上がりではないか。
抗いきれないおとなへの移行は、短歌のなかにしらずしらずに入り組んでしまう。
おとなには屈しない、の限界がじわじわと作品には沁み出てしまうのだろう。
それは作歌の才能があるのだから諦めてもらうしかない。
 
 やがてくるおわりをたしかめるように 御朱印帳を購いにけり
 
結びの1首。
御朱印帳、の画数の多さがきわだつ。
そんなもの買ってしまっていいの?辻さん、と心配になってしまう。
買う、ですら購う、だなんて。
結びの一首であいまいな<フワク>から完成度の高い<不惑>へ
自らすすんで移行している空気が読み取れる。
「ねえねえ、辻さんちょっと待って」と阻止したくなる。
これは荻原さんの
上記の辻聡之を述べた短歌の影響が絶大だからに過ぎない。
辻聡之は永遠に<おとなには屈しないといふ顔>でいなければならないのだ。
買うのは御朱印帳などではなく、
甘いキャンディーくらいにおさめておいてほしい。
そうすればわたしは混乱せずに済む。
 
頁末に
 
~不惑なんて昔の人は決めたことだから、どんどん変わっていこう、
自分の好きなように、呼吸がしやすいように。
 
と記されている。
そうやってだれもが<昔の人>になる。

しかし辻さんは、60歳になろうと70、80歳になろうとも

こんなふうに言っていそうである。
しかもそれが似合う。
辻さんが80になったとき
<昔の人が決めたこと>とうそぶけば、
なんの違和感もない<おとなには屈しないといふ顔>になっているはずなのだ。
それの序章というような辻さんの<フワク>だった。
 
 
 
 
  カタカナにまろみすくなし遥かなる影遺し逝くバートバカラック
                漕戸 もり