落としまえをつけるというと、凄みがある。

「お前さん、それでどう落としまえをつけるつもりなのかのぉ」

「この落としまえは必ずつけちゃるからな」(いずれもイメージ)

という使い方が有効である。なかでも、菅原文太さんなどがおっしゃると、

最も<優れた>落としまえとなる。

この落としまえを自分で自分に言い聞かせるときがある。

ちょっとした脅しだ。

<まさかあなた、これでいいとおもってないでしょうね>というふくみに

声なき声の端々がささくれ立っている。

<そんな滅相もない。おもってないです>とすぐ自分に詫びるのだが、

どちらも自分なので、そのあとがつづかない。

詫びてもらっても仕方がないのだった。

 

春に向かっている証拠なのだろう。

このところ三寒四温の<寒>にいるが、

ゆきつもどりつして時間をかけて春になっていくのは、とても贅沢なことだとおもう。

ゆきつもどりつの先に熟成という目当てがあり、

それは最良の状態以外なるはずはない、と勘違いしやすいが

実は、熟成したもののわたしたちの目にふれるまでに抹消されてしまうものは、

最良の状態の何倍もある。

不思議なことに、<折り目ただしく>ゆきつもどりつしたにもかかわらず

失敗する熟成もあるらしい。

 

歳をとるのは人だけではない。

季節も歳を経て、昔の春はよかったなどと言われたりする。

この熟成は果たして失敗なのだろうか。成功なのだろうか。

だれがそれを見届けるのだろうか。

 

さてと、

落としまえである。

ゆきつもどりつの時間がない。

ここからは文学というより数字との闘いである。

 

 

 

 

 

  額からぬるめの砂糖水湧いて春には春の挑みかたあり   漕戸 もり