空き時間に書店で過ごすことがある。

あくまでぽっかりできた隙間だからか、買うというまでにはなかなかたどり着けないけれど、

後々、なんとなくあのとき手に取った本が忘れられずにいるということは少なくない。

限られた時間しかないので、作者や中身についての印象というよりも

人生であまり出会わないような、たとえば法律の専門書や

列車のメカニズムをひたすら解説している本や、

文字よりも余白のほうに意味がありそうな詩集など、

分野はさまざまであるのだけれど、これらの本の装丁に惹かれてしまうのだ。

背表紙の硬さ、或いは柔らかさとか、紙の質とか手ざわりだとか、

なんといっても表紙のデザインは、作者の気迫が漏れ伝え来るようなものよりも

さりげなく<もしよろしければどうぞ>と

控えめであるほうが深読みをしたくなる。

中身にも興味があれば言うことはないのだけど、

見た目につられて買っては失敗もしているので、そこは慎重になってしまった。

損をしているような気もしないではないけれど、財力に限りがある以上仕方ない。

 

歌集や句集はそのほとんどが自費出版(買い上げなどもふくめて)なので、

断固として<見た目>で本を買ってはならない。

<駄作など連なるはずがない>とおもわせるような品の良いデザインや

身の丈を見失っているような装丁に、作者の師はアドバイスこそすれど、

「おいこら、それはないだろう」ときつく𠮟りとばすようなことない。

ここに、商戦に乗らない<自費>という現実が潜む。

まず作者ありき。そのうえ装丁が好みならラッキー、くらいがちょうどいい。

 

CDも同じだった。

今はもう音楽もデータで買うので、ジャケ買い、と今の子どもたちに言っても

わからないかもしれないが、

チック・コリアのカモメのアルバム(リターン・トゥ・フォーエヴァー)や

ビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドなどは、

ジャケットが決め手で買って、中身も当たりだった稀有な例だ。

日本のCDでジャケ買いといえば、断然YMOのアルバムだった。

「Solid State Survivor」と「増殖」は、聴くまえから興奮しかなかった。

テクノが好きとか嫌いという<嗜好>からではなく、なんとなくYMOのアルバムの

どれか一枚くらいはだれでもが持っていたような不思議な時代の流れだった。

それはYMOの逆輸入的な登場の仕方や、

聴くだけで洗礼されたファッションを身に着けているような感覚を得られたり、

YMOのCDを持っているということが、あたかも時代のあたらしい波に乗る旅券を

携帯しているかのような気にさせたりということだった。

高橋幸宏さんの訃報を知って、YMOのアルバムを見直している。

というより、

アルバムのジャケットを見直している。

あんなふうに、

中身がどうであれ手元に置いておきたいとおもえるジャケットや装丁と

こんどいつ出会えるのだろう。

高橋幸宏は永遠。

心からご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

  空き瓶に花を生けたり水差しとして蘇るまでを飲み干す   漕戸 もり

 

ドメーヌポールマス。

こちらも<ジャケ買い>。

中身は…。

なかなかYMOのようにはいきません。