東西南北どの方向を眺めても建設中のマンションがある。
でもいつからか<新築ラッシュ>という言い方をしなくなった。
なぜなら、ここ数年マンションは立ち続けているからだ。
日本の人口が減っていることをわたしたちは知っているので、
どこかおかしいぞ、これはなにか罠でもあるのではないか、と
うっすらかんじているけれど、なすすべもなく
赤白のクレーンが積み上げる鉄骨やコンクリートをただ見上げるしかない。
強引に生みだされているような建物とは反対に、
死ぬに死ねない建物もある。
建設中のマンションを通り過ぎすこし歩くと、
すぐに空き家や閉めたままの店舗と出くわす。
空き家問題は、既に過疎地だけの問題ではない。
人の気配が失われるとこんなに荒ぶのかと、驚くほどの乱れかたに
植物は、新芽であっても牙をむいて生えているように映る。
雨水をどん欲に吸い、日差しにむしゃぶりつき、
投げ捨てられた缶コーヒーやひとの息のしみついたマスクと
「おい、兄弟」とでも言い合っているみたいだ。
でも、だからといって
ここにあたらしい家を建てたりコインパーキングになるのを
期待しているわけではない。
あたらしいマンションが建設されている傍らに、
<此処>があるということを知っておかなければ、ということだ。
今日の写真を撮影したときに、
<ああ、こういう心のひとと会ったことがある>という
あやふやな記憶をおもいだした。
もしかしたら幻想だったのかもしれないし、いつかみた夢だったのかもしれない。
はっきり言えるのは、その心をまえに何もしてあげられなかったという事実だった。
幻想か夢かもしれないけれど、茫然と立ちすくむのは
荒んだ心の、手入れされていない空き家や空き地の、
縦横無尽に立ち続けるマンションの目の前で、無力でしかない。
無力を知っている。
それが<やさしさ>の源になるとしても、
ただそれだけなのだ。
永遠のピーターパンと楤の芽と 漕戸 もり
