古い写真集をひらく、という感覚ではない。

どちらかといえば、

<あたらしさ>をふりかえるというイメージでときどき眺めるのが、

写真家篠山紀信さんの約10年前の個展に合わせて出された写真集「写真力」。

例にもれず名古屋では開催されなかったので、

(この現象を名古屋人は自嘲気味に名古屋飛ばし、と呼びます。慣れっこです。)

関東の知人にお願いして手に入れたたいせつな一冊だ。

個展は2012年に開催されたのだが、こんなふうに10年後の今ひらいても、

どこもかしこも<あたらしい>。

この<あたらしい>は、保管状態も良い

(購入時は中身がみえないようビニールで頑丈にラッピングされており、

そのビニールさえも最小限の傷に抑えるために、最新の注意を払って

カッターナイフで剥がし、閲覧後はふたたびこのビニールをかぶせて保管している)

のはもちろんだけど、写真家の50年余りの(当時)作品から

選りすぐりのもので構成されているので、

古き良きときには悪しき時代の、風景や眼差しやファッションではあるのだが、

確実にエネルギーを秘めていて熱風を浴びせられるような心地になる。

2011年3月11日に起きた東日本大震災の被災者の表情などは、

いつなんどき見ても心が痛む。

ひとはあのような未曽有の災害に遭ったとき、

泣いているのか笑っているのか怒ってるのかわからない、

なんとも不思議な表情をするのだということを知ると、

もしかして、写真でしか深くえぐることができない<箇所>を

ひとは持っているのだろうか、とかんがえずにはいられない。

もちろん文学はだめということではなくて。

 

文字やことばを追いかけていると、時折こんな時間が必要になる。

悪い癖で、写真や映像をどうしても言語化したくなるけれど、

ことばでは語れない感情や<箇所>を持っていたいとおもう。

 

 

 

   寒紅や世界一有名なキス     漕戸 もり