早朝。
雪の気配は遮光カーテンを閉めていてもわかる。
わたしの部屋には音がない。
時計はあるけれど、太陽電池で作動しているので秒針の音もしない。
けれど、元々は、植物である樹木から成る机やベッドや床や本に漂う
わたしの呼吸以外の<息づかい>が、
号令をかけられたように、どこか一点へ吸収されるようなとき。
吸収しされつくしてもう奪うものがないと、
こんどは部屋全体が清潔に孕んでゆくようなとき。
それらは決まって雪の合図だ。
目覚まし代わりにしている携帯電話が鳴るまえに、
合図はゆっくりとわたしを眠りから剝がしてゆく。
名古屋方面のクリスマス(イブもふくむ)の雪は何十年ぶりだろう。
このまえのクリスマスの雪をおぼえている。
このまえといっても、かれこれ30年以上前のことだ。
それくらい名古屋のクリスマス(イブ)に
雪が降っていないことにも驚くけれど、
あのときをこんなにもはっきりとおもいだせるのは、
感受性の育ちざかりだったということもあるし、
なんとなくしおりを挟んでおきたい、という
いくつかあるなかの人生の節目だったからだとおもう。
学校の帰り道。
何時かは思い出せないけれど夜。
ボーイフレンドといっしょだった。
人目を気にして手も繋いでいなかった。
いつもだと、ボーイフレンドの家が先にあるので、
じゃあまた明日、と言って彼の家の手前で別れるのだが、
その日はクリスマス(イブだったとおもうけれど定かではない)
ということもあって、お互いなんとなく
子どもながらに別れがたいというかなんというか、
こんな寒いそれも夜に、すき好んで今話さなくてもいいでしょう、
というような…勉強のこととか、流行りのゲームのこととか、先生の悪口だとか、
彼の話しが途切れると、わたしが全然関係ない話をひっぱりだしてきて、
またそれがおわると、こんどは彼がべつの話題を持ちだす…といった具合に
手も足も体の先々が冬に侵食されてゆくのもお構いなしで、
随分長いあいだ話し込んだ。
するとそこに突然雪が入り込んできたのだった。
ボーイフレンドもわたしも(今ではなにを話していたのか忘れてしまったが)
話しをするのを止めて、息をのんだ。
「あ、雪」とすら言わなかった。
※ちなみに残念ながら「ゆひら」とも言っていない。
ふたりとも、雪を、というより
雪が生まれてくる<源>を見上げていた。
先に、感受性が育っているような、と書いたけれど
じぶんたちに降り注いでいる雪は魔法の粉だった。
このままずっとだね、そうだね、と信じることがすべてのような。
「だいじょうぶ?」とボーイフレンドはわたしに尋ねた。
雪はやみそうもなかったし、わたしたちの髪や肩を濡らしはじめていた。
だいじょうぶには、
ひとりで帰れる?という意味と、
濡れて寒くない?という意味と、
ぼくたちはこの先もだいじょうぶなのかな?という意味が
込められていたような気がした。
そのぜんぶに「だいじょうぶ」と返事をして、
じゃあまたね、と雪のなかじぶんの家へ歩きはじめたのだった。
たったこれだけのことなのに、
わすれられない思い出になったのは、
あの日がクリスマスで、そのうえ雪が降ってきたからだ。
今日もどこかでだれかの思い出が生まれているのだろうか。
そうだとすれば、これくらいの寒さは我慢しよう。
このまえのクリスマスの雪が今わたしをあたためているように、
今日の雪のクリスマスが<このまえのクリスマス>として、
だれかをあたためることがあるとするならば、
それがクリスマスのほんとうの理由だとおもうのだ。
溶けだした雪だるまからぼくたちの指紋は剥がれ風に捺される
漕戸 もり
こんな素晴らしい音楽がある世界に感謝をこめて。
だいじょうぶ?
だいじょうぶ。