歌会にはじめて出たとき面食らった話は
以前にもしたけれど、
歌会は短歌を詠むだけでは済まされない。
他者の歌をいかに深く<味わっていますよ>ということを
さし示すということが、むしろ重要なファクターである。
風流なラップバトルと言ってしまえば乱暴だけれども、
あなたがまだ歌会に参加された経験がないのなら
これくらい脅かしておけば、すくなくとも心構えにはなるだろう。
とはいえ、面食らったわたしも歌会の性質に慣れてきたので、
随分打たれ強くなったし、容赦なく<味わえる>ようになってきた。
苦手意識は拭い去れないけれど。
そもそも、人生を好きか嫌いかだけで選びすすんできたような
単細胞のでくのぼうなので、<味わえる>と言っても
短歌の世界では、
いつまでたってもわたしの評はクソみそのままである。
 
歌会以外にも<味わっていますよ>はみられる。
絶望的なことに短歌雑誌などは<味わっています>から出来ている。
細かい字で数ページにわたるご立派な<味わっています>を、
ホチキスで綴じてみえないようにしていったら、
読むページがすっかりなくなってしまった。
好きとか嫌いといってへらへらしている歌人はどこにもいない。
 
歌集にもご立派な<味わっていますよ>は存在する。

吟味してやっと購入した歌集(歌集や句集は高価なものが多いので)や

ありがたい謹呈歌集の、巻末や別紙栞に載っている

著者の尊敬する歌人やお好きな歌人の総評は、
わたしの<味わえなさ>を露わにするので、
なかなかページを開けないものもすくなくない。
やめてくれー、だ。
 
ご立派な<味わっていますよ>は、だれに向かっているのだろう。
おなじように<味わっていますよ>というひとへだろうか。
それならば、
其処にわたしの居場所はない。
 
 
 
 冬休上履き持ち来冬休   漕戸 もり
 
 
 
贔屓の鉄板居酒屋である。
この大胆さ、美味さ、お財布へのやさしさ。
密になりがちな栄や名駅ではなくとも
名古屋市中心部の駅近にある穴場である。
好きか嫌いかと言えば
好きである。
評は以上。
味わっています。