中日短歌会の歌会。
朝早くから仕事があり、ぎりぎりの時間で伺ったため
わたしだけが汗だくの風光明媚な教室。
おまけに、本日の司会は昭和5年お生まれの歌人だという。
昭和5年って、もはやおいくつかもわからない。
ジュエリーもお帽子もまぶしくて、
どこに目をあてていいのかわからない。
 
ところで。
現代短歌フェス、チケット売り出し中です。
芸事の尾張名古屋から、コロナ禍以降満を持してのイベント。
荻原師匠がおもしろがって、
わたしを数分の朗読コーナーに就けましたけれど、
そこは漕戸の半分に本業の別人格が乗っ取っりますので、
最低でも半分は眠れるでしょう。
すばらしい朗読は睡眠導入剤なのだから。
 
そういえば、今月末まで仕事でバタバタしているので、

中日短歌会の締め切りが25日だということを忘れていた。

本日歌人会の田中さんから、切手を貼って歌を記入するだけでよい、

という葉書をいただいたのでさきほど投函してきた。

近頃の郵便事情は信用しかねる面もあるけれど、

取り敢えず送った、ということで認めようじゃないかとおもう。

よくやった、じぶん。

 

  お互ひに凭れるやうな日々にゐて揺れやすい脚衰へてゆく  

           (2022・10・23中日短歌会歌会自由詠 漕戸 もり)

 

 

評をうかがっているとき、たのしかった。

感謝しかない。

 

若くても既に年老いていたとしても、

そこから老いに向かうというのが生きるということで。

そして同時に、脚腰からひとは崩れてゆく。

どっこいしょ、と座れば

脚はぶらぶら揺れる、なんとも頼りないしろもので、

だから脚から衰えると言われても

はいそうですよ、それがなにか?としか

言い返せないのである。