自主的って一体なんだろう。
先日、
母が天然酵母のパンを予約しているから、と言うので
一緒にてくてく歩いて、そのお店まで買い物に行った。
到着すると、3日かけて作る酵母のパンと、
選び抜かれたアンティークのジュエリーと、
手を加えて蘇った音響機器から流れるジャズレコードの音に迎えられた。
そういうお店だった。
天然酵母のパンもジュエリーも音楽もまろやかで、
それらはぜんぶ、やさしい、のだった。
母の友人であるお店の奥様が、せっかくだから、と
おいしいお茶を淹れてくださっているあいだ、
ご主人と、
手を加えたすばらしい音を響かせるスピーカーや、
真空管について暫し語らう。
聞けば、以前は此処でささやかな音楽会などを開いていたらしい。
真空管に灯るオレンジの光や、木材で囲われたスピーカーは、
どんなに音量を上げたとしても、けっして音は悲鳴にはなりえない。
わたしたちが、お茶をいただくためにマスクを外したタイミングで
ご主人がマスクを外すと、白い口髭があらわれた。
それが、やさしいの裏づけになったのは言うまでもない。
手塚治虫の漫画の主人公に出てくるような白い口髭は、
マスクの時代にそうそうみられるものではない。
作りものではない正真正銘の口髭は、やさしい以外になんだろう。
気取っているのではない、おしゃれでもない、逆に怠惰でもない。
ご主人の自主性に任されている。
自主性と言われると、口籠る。
すくなくとも、
自分からすすんで宿題を課す、なんていうことはあるのだろうか。
頭の悪いわたしにはぜんぜんわからない。
宿題というものは、他主性に限る。
なぜならば、そうじゃないと
マスクの裏にある口髭を、やさしいだなんておもえないじゃない。
そういう世の中になりつつあって、
そういう世の中に生きるしか手立てはないから、余計にそうおもうのだ。
口髭で着ぶくれてゐる不織布の 漕戸 もり