汀女忌の食パンの耳揚げてゐる  
    (2022年10月9日 中日俳壇 長谷川久々子選   漕戸 もり)
 
小説家なら向田邦子。俳人なら中村汀女。
<生活感>をおもうとき、ふたりの作品は教科書になる。
ああわかる、というものもあるけれど、
わたしとは違うけれど、という前提で実感するものも多い。
汀女は「私たち普通の女性の職場といえるのは家庭であるし、
仕事の中心は台所である。そこからの取材がなぜいけないのか」
(「汀女自画像」より)と言い切った。
最近では、台所を占領させてくれと言う男性もいるらしいから
逆差別と言うのかもしれないが、汀女の俳句は性別問わず
今後も読み継がれてゆくに違いない。
 
  高きよりたまりこぼるる落葉かな 
  部屋割も旅二日目の酢牡蠣から  中村 汀女
 
食パンの耳を揚げるようなずぶずぶの<生活感>に浸っていると、
もうひとつおもいだす作品がある。
佐野元春の「情けない週末」という歌だ。
 
 もう他人同志じゃないんだ
 あなたと暮らしていきたい
 <生活>という うすのろがいなければ 
 町を歩く二人に
 時計はいらないぜ
 死んでる噴水 酒場
 カナリヤの歌 サイレン
 ビルディング ガソリンのにおい
 みんな雨にうたれてりゃいい 
      作詞 佐野元春 「情けない週末」より
 
 
大学時代、学科は違うけれど
第二外国語の選択授業のフランス語で一緒だった内藤くんが
佐野元春の大ファンだったので、影響されて暫く佐野元春を聴いていた。
20代前半のわたしたち世代に、<生活>はうすのろ、というフレーズは、
気もちにぴったりはまって、
うすのろにはなりたくない、と抵抗するような毎日だったようにおもう。
それでも、佐野元春が書く詩のなかの<生活>は、
死んでる噴水や酒場やカナリヤの歌やサイレンまで、
すべて輝いていてみえるので、それですら手の届かない空虚だったのだ。
 
食パンの耳をかじりながら、あぶらでてかてかとさせて、
くちびるはなにをつぶやこうとしているのだろう。
心配しなくても、空虚は今こんなにも手中にある。