怒涛の三連休が終わった。
お金をいただいて喋るので、ひとことひとことを吟味する。
なにも堅苦しい言葉を羅列するという意味ではない。
ユーモアや滑ることもときには必要で、
そのあいだ絶えず空気を読みつづける。

極端な話、放送媒体で正確な情報を伝える場合は、

堅苦しい言葉の羅列はむしろ重要で、それをいかに

聞き取りやすい声ではっきりと伝えるのかに心を砕くのだが、

イベントや宴席の場合は、もしかしたらというか

もしではなく確実に、喋り云々というよりも、その場面のために、

佇まいから接客からふるまいから、又宴席前後の

クライアントとたわいもない冗談を言い合うような穏やかなひとときも

わたし自身を捧げているというイメージに近い。

たとえば現場入りが10時だとしたら、

身支度をする6時ごろから、イベントが終わりその会場を出る18時までは

正確にはわたしの時間ではない。

その時間はクライアント(が買ったわたしの)の時間だ。

ということは、買っていただいた12時間と

睡眠に充てる6時間を合わせた18時間を24時間から引いた

残りの6時間がその日の私的な時間になる。

食べたりショートバージョンのストレッチや水を飲んだり、

宅配の荷物を受け取ったりしていれば、時間は光のように消えてゆく。

精神は成熟していないのに、いれもの(体)だけが古くなるのは

このせいなのか。

身売り、というと性風俗のような印象があるけれど、

働くということは総じて身売りといえる。

 

さて、そんなこんなで三連休のなか日の中日歌壇。

 

 寝てゐる木寝てゐない木とゆびを指しよその子がよその母にだけ言ふ

     (2022年10月9日 中日歌壇三席 小島ゆかり選   漕戸 もり )

 

録画予約している某ドキュメント番組で、

不登校気味の小学生の女の子が、通う公園からおかあさんと帰る場面で

一瞬だったのだけれど、並木道に立つ木をそんなふうに数えながら歩いていた。

たいして重要なシーンでもないので、

しっかり観ていないと素通りしてしまうくらいの場面なのだけど、

なんだか気になって5秒くらいのそこをなんども巻き戻して観た。

それ以来、街を歩くとき傍らの木々を、

寝ている木か寝ていない木かと、考えながら眺めるようになった。

子どもというのはすごい。

ひとはというのは、はじめはこんなにすごいものだったのに、

いつのまにか、そんなことに気づかないおとなになってしまう。

 

あの女の子はそのことを、自分のおかあさんにしか教えない。

彼女のふりむいた場所に、おかあさんがいたことにほっとした。

上記の短歌で、その女の子は大切なことをおかあさんにしか教えないのだ、と

なんだかわたしはいじけているみたいだけど(まあそれもそうなんだけど)、

おかあさんがそこにいてくれて救われたのは、実はわたしかもしれない。

そういうおもいをこめた一首。

三十一文字をはみ出して、空の高さまで想像できたらうれしい。

 

こつこつやります。