もしここに、
サイン入りの書籍とサインなし(ふつうに売られている本)のそれがあったら、
サインなしのほうを選んでしまう。
書籍に、というとなんだか深い暗い意味があると勘繰られるかもしれないので、
たとえばアイドルの写真集や、音楽ならCDに、
たとえばプロレス観戦のような、書いてもらうものがないときにはTシャツにでもいい。
あこがれのひとが目の前にいるときに、サインをしてもらうかというと、
してもらわない人生だった。
20代のころ。
東京新宿の、今では季節もおもいだせないほどの過去。
飲み屋で偶然隣席でお酒を召し上がっていらした、当時も今も、
だれでもが知っている作家さんから名まえを聞かれたので、なんだとおもって見ていると、

御大は、出版したばかりの自身の単行本と油性ペンを傍らから取り出し、

 
○○○○様(わたしのなまえ) ▽◇〇座衛門(作家の氏名※注イメージ)
 
と、したためて差し出した。
まあ、毎度のごとく適切(ここ重要)にその場が盛り上がって、
気に入られたということもあったとおもうのだけど、
あのときの、汚されるような感覚が未だに忘れられない。
あの本はそのあとどうなったかというと、
サインされた最初のページを切り取って此処に保管されている。
有名で有能な作家のサイン本である。
売れるのだろうか、と問われたら売れるだろう。
それでも、持ち帰ってから丁寧にはさみで切り取り、
くだんのページを丸めて捨てた。
丸めるというよりも、硬くて上質な紙だったせいで、
丸められずに畳んで、というほうがリアルに近い。
手があの硬さを覚えている。
 
本は作家が生んだ子どものようなものだけれど、生んだ時点で作家の手を離れる。
作家の才能に敬服はしているけれど、
わたしはどうしても本そのものが好きなのだった。
本のにおいを嗅ぎながら、一枚ずつ捲るときの感触や、
紙を隔てて作者のおもいにふれられる距離が心地よい。
作者のサインは、それらを微妙に邪魔するものなのかもしれない。
 
とはいえ、せっかくだからサインしてもらうとしたら?
と一生懸命かんがえた。
カバーを剥がしたうちがわへ。
場所はどこでもいいけれど、できるだけちいさく書いてもらう。
いつでも消せるように鉛筆でお願いしてみる。
本屋さんで買ったとき、
おまけのように挟んでもらった栞に書いてもらうのはどうだ。
どれもこれも妙案ではない気がする。
それはなぜなら、作家のこともリスペクトしているからである。
だからといって、本の表紙を捲った最初にある立派そうな紙に書いてもらえば、
またあの日のように引きちぎってしまうに違いない。
そもそもサインとは、どういう意味があるのだろう。
サインの証拠があるからといって、現金をいただけるわけではない。
約束を果たすためのものでもない。
ましてや愛を証明するものですらないのだ。
そんなこんなで、永遠より少し短い日常は今日も過ぎてゆく。
 
 あなたと呼ぶときの空の青さにも永遠はきつとすこし短い   漕戸 もり