地下鉄が途中から外を走り出してそのまましばらく外の風景を見ながらゆくと、
まだここは愛知県内というのにちょっとした旅先のような風情に迎えられる。
いっせいに風になびく陶器の風鈴が、さらさらさらさらと音をひびかせていた。
風鈴は陶器でこの日は台風の影響もあって風も強かったので、実際の風鈴はもうすこしお茶碗めいた音を立てていた。食事の際、意図もなくお茶碗と箸がふれあえば、気心しれたひととと食べていると温かに聞こえ、ひとりでごはんをかきこんでいるときはせつなく染みて、
陶器が触れ合う音色というのはとても不思議。それはやっぱり土からできているからなのだろう。
温かかったりせつなかったりしてもおしなべて言えるのは、耳障りではないということだ。
ここにもまた土の影響がある。
週末には、遠路はるばる家族連れが降り立ちにぎわう城下町でもあるので、
駅に降りると迎えてくれる風鈴の大合唱に、子どもたちの沸き立つ様子が目に浮かぶ。
階段を降りるとバスターミナルがあり、地元のタクシー会社のタクシーが二台ほど、待つことが仕事だというようにエンジンを切って止まっているだけで、平日は風鈴の音をかき消す人の声もまばらなせいもあって、風鈴のために存在する駅のようにも見える。
うるさいと文句をいう隣人もいない。
よくよく考えると、文句をいうのは人間だけというのもちょっと悲しい。
言葉や感情を持っているから仕方がないにしても。
若いころはアウトドア派だとおもっていたのに、いつのまにやらごりごりのインドア派になっている。国が、補償金を惜しむためなのか、先が見えないようなコロナ禍に匙を投げたのか(いずれにしてもわたしたちは考えなければいけない時間に入ってきている)しらないが、なんとなく自粛がほどかれてきたので、ふつうに外食もするし、コンサートや買い物にも行けるようになったけれど、よっぽどの熱に動かされなければ出かけなくなってしまった。
家人が仕事でわたしがお休み(最近は家兼事務所で企画書を練ったり原稿を書いたりしていることが多いが、これは家人に言わせると休日らしい)の日に、今日は家から一歩も出ないでなんだかんだとばたばたしていたら暮れていた、と告げると「俺には無理っ」と切り捨てられたことがある。
こうゆう「今日は」が何日も何日も続くうち、わたしはほんとうはこちらにいたかったんだ、ということに気づいてしまった。
身の回りを整理し、掃除機をかけ、本を捨てたり買ったりし、青竹踏みをしながらアマゾンプライムで映画を観る。トイレのある安心感に心ゆくまで水を飲み、ネットで果物を買い肉を選ぶ。
いつかまたアウトドアに転向するかもしれないけれど、それはきっと(そんなものいるかどうかも、それにあらわれたらだめなんだけど)人生最後の大恋愛のお相手のような、わたしにとってのインフルエンサーが現れない限り無理でしょう。
不思議なことに、朝起きて夜眠るというスタイルは変えていないのに、インドア派と自覚して以来
休息している時間がないよいうな気がする。
思い当たることがあった。
人と暮らすようになってから、ソファーに座ってゆっくりするということをしていない。
家というのはだらだらと怠ける場所ではなく、背筋を伸ばして過ごす場所ということを決意して人と暮らし始めたのだった。もう何年も何年も前の決心なのに、ここにきてくっきりと姿を現した。
人はやがて家族になり空気のようなものになってはきたけれど、だからといって今さら、伸びた背中をまるめて掃除したての畳に寝転がるなんてできやしないのだ。
24時間営業中。
風鈴とともに、凛とした音を立てていきますか。
リハーサルしているうちに秋風鈴 漕戸 もり
