生きものを飼ってはいけない建物に住んでいるけれど、亀を二匹飼っている。
なんだか亀は、(生きもの)ではないような気がするのだ。
(生きもの)ではないのならいったいなんなのだろう。
飼うことになった顛末は以前ご紹介したと思うので省略するが、
少なくとも(生きもの)らしきものではあるけれど、規則でいうところの(生きもの)と
やや異なると考えたのだ。
毛が生えていないとか、ほとんどを水の中で暮らしているということや、なにより声を持たないということが決め手だった。
なかでも鳴かないということは、隣人に迷惑をかけずに飼育するための最大の利点だ。
声というのは、果たして時に迷惑になる音なのだと亀を飼育するうちに学んだ。
人の場合、声は生きるために不可欠な呼吸や飲食の入口になる場所から発生する。
それはよくよく考えると実に奇妙なことだ。なによりとても渋滞するではないか。
亀は、肺呼吸とも尻呼吸とも皮膚呼吸とも聞いたことがあり、
口だけではないだろうということも飼育してなんとなくわかっている。
亀にとって口は、声も息も通さずひたすら食べ物を取り入れるだけの入口にすぎない。
単純な構造が、こんなふうにごちゃごちゃ考えなくて済むようにできているのだろうか。
その(生きもの)に、声を発する機能があるかどうかが飼育の基準値になるならば、
戦時中、ものも言えない世界にじっと生きていたわたしのような庶民のご先祖たちの、
なにか抑圧されていた(生きもの)は、さぞかし飼育しやすかったのだと思わずにいられない。
あのころの人の喉は、粗末な食べものと浅い息と本心を語れない声とを通すだけだったので、
飼っていい「(生きもの)らしい」ものの体のしくみにとてもよく似ている。
ただ、渋滞してしまうような構造を備えているせいで自分で自分を生きにくくさせたり、傷つけたり、死んだりするのだから、それは想像以上に過酷だったに違いない。
こんなふうに、もはや人が(生きもの)でなかったということにたどり着くと、
じわじわと戦争の不気味さが襲ってくる。
なんでもを燃やしてしまうようだった猛暑の去り際に、知りえない終戦の夏のような感触をふと感じたり、亀がどことなく食べる勢いをゆるやかにしている。
わたしは(生きもの)なのだろうか。それとも(生きもの)らしきものなのだろうか。
亀は食欲を僅かに減らし、わたしは食欲を増やして、もう20年目の秋である。
消しゴムを千切つて千切つてまだ白露 漕戸 もり
息苦しくて何気なく見上げると本棚だった。
