新学期がはじまる。
あのけだるい感触は忘れられない。
明日から新学期だというのに、だから早く寝ようと思うのに、ぎらんぎらんに目が冴えきっていた。
会いたいひともそんなにいない久しぶりが、こんなにめんどくさいということをきっとあのとき知ったのだった。
知るということは学ぶに近いのだけど、大人になると、会いたいひとと久しぶりに会うめんどうくささもまた知るのだ。
新学期があるというあのころの、今思うとちいさな鳥籠のようななかで学ぶことなんて、折り紙でいうと表面でしかない。裏面は真白で、限りなく自由で、なんだったら好きな色で塗りつぶせるなんてことはだれもおしえてくれなかった。
だって。
もしそれを知ったら鳥籠を出たくなってしまうにちがいない。
出る出ないは別として、出たい気持ちでそこにいるのはやっぱり良くないと大人は知っていた。
ぼんやりしていても、いつのまにかだれでも大人になってしまうので、そういう打算的なことも自動的にわかってしまって、騙されたとまではいかないまでも「まあ、そうでしょうねえ」などと理解できてしまう。ちょうどいまごろのような季節が夏から秋になるような寂しさで。
仕方がないけれど、あなたもそしてあなたの愛するひともいつかおなじように理解してしまう。
明日、もし学校へ行きたくなかったら行かなくてもいいと思う。これは絶対そう。
でも、じゃあどこに行けばいいのかどこにいればいいのかが、あなたがわからないように
わたしにもわからない。
ただ。
わたしたちは、たとえお気に入りのリネンで眠れる温かなまたは涼しい部屋であっても、そこにずっといたいというわけではないということは知っている。
知っているから一緒に辛いのだ。辛い、一緒に。
「おじさんはどう生きるか」松任谷正隆 著。
なんとも長閑である。
けれども、文章ではうかがい知れないあなたの今日のような夜が、彼にもあるかもしれないのだ。
かも、じゃなくきっとある。
「どう生きるか」は、あなただけでなくおじさんになってもおばさんになっても常に考えるもので、やがてわからないまま尽きるのが寿命というものだと思う。
せめて今夜、あなたが(一緒)というあたたかさに気づいてくれればいいのだけど。
乳液で整へられて鱗雲 漕戸 もり
