作者を投影させたと言われている物語は、母への憎しみを軸にして綴られてゆくが、登場人物たちの会話やファッション、書籍や音楽から1960年代の匂いを盗み嗅いでいるようで飽くことがない。
石原慎太郎の「太陽の季節」や村上龍の「限りなく透明に近いブルー」なども、
そういう意味ではときどき読みたくなる作品だけれど、たいていの人が感じる
(時代を遡れば上るだけ若者たちが大人びてみえる)
のは、一体全体どうした仕業なのだろう![]()
わたしのほんの僅か前の(青春)ですら、平成生まれの人々からだと
(大人びて)みえるのだろうか。
古典というのは、元々(古典)として存在しているというのではなく、
こんなふうに、わりと肌で感じられる時間のなかで成熟してゆくものかもしれない![]()
夫の小説の解説を妻が書くというのはそんなに驚くことではないが、
夫婦ともに小説家というのがそれほど多くないことを考えると、そして、夫の逝去によって再版された過去の作品に、残された小説家の妻が解説をしたためるということを鑑みると、小説家としてなのか、妻としてなのか、それともほかの何者としてなのか、どの立場の色合いが強い解説なのか読んでみたい。
数年前「妻のトリセツ」(黒川伊保子著)という新書が話題になったが、
(内容は、夫への妻という存在の善処の処方箋といったところか)
こちらは(妻のカイセツ)である。
このふたつ。似ているようで内情は全く違う。
(妻のカイセツ)とは、なんとしあわせな響きなのだろう。
手に入れたいと思っても妻が小説家でない限り、納得できうる解説など
お目にかかることはできないだろう。
その前に。
まず自分自身が、秀作を残している小説家であることが必要なのだから、益々至難の業だ。
そういう意味でも藤田さんは、数多の夫のなかでもしあわせな部類の夫であった。
しあわせでもあるし、愛されている夫だったのだと思う。
稲妻の行きも帰りも名残惜し 漕戸 もり
