今年3月末で長く所属していた「かばん」を抜けたことで、短歌に限らず「書く」ことが好きだということに気づいた。というか、元からわかっていたのだと思う。
抜けた、というのは感覚的に表すと「放牧」がはじまるイメージだ。器用な方はどこかに所属されていても、自由自在に活躍されている(「かばん」大先輩の穂村弘さんや東直子さん等はそうだろう)のだが、わたしは所属を尋ねられるたびに、「かばん」と言うのをいつしかやめてしまっていた。言わないことで、俳句を始めたり、詩作をしたり、小説めいたものを書いたりしていくなかで、とうとうほんとうの「放牧民」になった気がしていた。
そういうわけで春からは、俳句も詩も散文も気もちの赴くままに書き散らかしている
この「放牧」のおかげで、実に快適であることを手に入れると同時に、いかに自身が自立していなければいけないか、ということもセットで請け負った。
自立心に関しては、月一の東桜歌会と時折の新聞歌壇への投稿で保てる自信もあった。けれども、プロの物書きでない以上、「放牧民」には「日常」がつるんといとも簡単に入り込んできて、優先順位は今まで以上に「日常」となることが増える。
ああ、そういうことね。
まるで安倍公房の「砂の女」だ。
砂の中にいることと壁に遮られていることと、どちらにいようが「自由」は限りなく遠い。
自由とは、書き散らすだけではないということだった。
で。
「かばん」と同じくらい自由(そうに見えて
)、「かばん」よりも人生の大先輩方がお揃い(と見えた
)の中部日本歌人会に6月から入会させていただくことに決めた。
書き散らす中にも秩序を持っていたいのと、それにも増して学びたい、という気もちがある。
歌を、というよりも歌を長く嗜んでいらっしゃる、歌人様たちの生きざま?みたいなものを見たいと思うのだ。いまはどちらかというと、俳句に傾倒しているけれど、この経験が俳句にも影響を与えるといいなぁと思う。
6月25日までと末日までの自由詠の締め切りがあるのだが、「日常」とどのように折り合いをつけて作歌に取り組んでいこうかと模索している。今日から暫くのあいだわが家に居候がひとり増えるので、不安
でしかないけれど。
昨日より今日のわたしがうれしいように。
自由にと言へば反りだす胡瓜噛む
漕戸 もり
