短歌ホリック⑧を読む。
今回は、参加歌人各々がリスペクトする書籍を掲げていて、
そのイメージを土台に歌を詠むという試みとなっている。
なので、短歌を読んでみてその書籍を読みたくなるのか、
それとも関心が持てないままなのかは、すべて歌人の力量に依るところとなる。
8名の歌人の選んだ本のうち、3冊は既読、
それ以外は作者名は存じ上げているが作品は未読だった。
どちらかというとこういう企画の場合、あまり知られていない「土台」のほうが、
作品(この場合は短歌を指す)に引き寄せる力がつよく働くのだなぁ、などと
悪気もなくおもうのだった。なぜならば、もう馴染んでいる小説の印象が
せっかくの短歌の世界を、崩してしまうときがあるのだ。
それとも、歌人の小説の読みこみが足りないことが露呈されたり。
まだ共鳴していれば話は別だが。
今回は、挙げられている書籍を既に知っている場合とそうでない場合があったので、
書籍はスルーして、純粋に印象に残った短歌を読んでみます。
声をかけたいけどかけづらい梅園に逢ふ約束のない妻がゐて
網膜にさくらその他の散りやまぬ午後のひかりを採取して行く
(「永くて青くて静かな日々」 荻原裕幸 )
短歌のなかに「妻」「その他」が読みこんであれば、
その大半は荻原さんの歌だ、というくらいお馴染み荻原節さく裂の二首。
声をかけたいけどかけづらい、とはまったくもって夫婦ならではの不可思議な感情。
そういえば家人とはもうずいぶん長いあいだ待ち合わす約束をしていない。
まあ家族とは概ねそんなものなのかもしれないが、それが、
約束をして待ち合わすのが本来相応しいような、とくべつな場所としての梅園で
偶然逢ってしまったので、どうしたらいいんだろう、というかんじが手に取るようにわかる。
実は「梅園」って、以前わたしがよく行っていた台湾料理のお店の名まえでもあるのだが、
その名通りの梅の咲いている公園を想像しても、わたしの行きつけだった「梅園」をおもっても、
この歌の持ち味が変わらないのがたのしい。
二首目。目じゃなく眼でもなく網膜とすることで、さくらの花びらの細かいのが、
目に映っている様子が浮かぶ。採取、という言葉も医学的なイメージもあるからなのか、
網膜に掛かってくるので、全体的にまとまりのある世界観が伝わってくる。
目の病・・・網膜剥離、とか白内障、緑内障等、日常生活でそれとなく聞こえてくる
言葉の持つ勝手なイメージは、うまくいくとこんなにわかりやすく、
且つ端正な歌に仕上がるのか。
ほかにも、唸るような歌は続きます。
ことばを理解できない花だと侮つて近づけばさびしげに鶏頭
夢の底まで冷える冬の夜この私の何パーセントが朝になるのか
(「永くて青くて静かな日々」 荻原裕幸 )
よく見てみれば鶏頭は、非常に奇妙な形状をしている。
そのうえなんだか、花だというのに動物の毛のようなものを生やしている。
こんなふうにおもうわたしのような者にも、鶏頭のことを
「ことばを理解できない」花、と、指し示すのは、説得力がある表現だ。
「ことばを理解できない」花として、改めて鶏頭を観察してみるとどうだろう、
なんと孤独な気配を持つのかと感じずにはいられない。
ということは、理解できない、と決めてつけていたのはわたしで、
奇妙な形状であり、毛なんか生やして、花のくせに花らしくない、と
自分勝手に憤っていたのもわたし(だけ)だったのだ。
日常生活にもふつうにあるような経験を、内省させてくれるような歌でもある。
夢の底まで~。
朝になるときに、わたしそのものが朝になるわけでは決してないのだけれども、
ときに冬の朝は、夜の気配を引きずっている雰囲気を纏うので、
体の芯が冷えてやっと温まっているような明けがたと、
朝のまだ起き抜けのぼんやりとしている感覚に共感してしまう一首。
パーセント、ということで考えてみると、感覚的にでも
自分自身(の体ごと)が100%朝になって起きられるということが、
いかに能天気で幸福なことだとおもわずにはいられない。
そんなことは奇跡だとわかっているから、この歌を読むと
自分のまだ冷えている「夢の底」のような部分を自覚してしまう。
むつかしい言葉はなにひとつ使っていないのに、心の深い部分を撫でたくなるような歌だ。
今日はここまで。
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