東桜歌会。
「かばん」を辞めたので、命綱のようにかんじる東桜。
今日は、いつもの会議室があるビル内で
佐渡裕/反田恭平 新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会が開催されていたので、
大勢のひとが歓喜しているだろうおなじ時間に、おなじ場所の高いところで
ぼそぼそと短歌を嗜んでいたのだけど、音も歓声もまったく届いてこないのに、
コンサートホールの興奮めいたものが、それとなく響いてくるような不思議なひとときだった。
たぶん、満席のひとびとと、楽団の素晴らしい演奏の波動が、
お金を払ってもいないこちらにまで、はみだしてしまったのだろう。
不思議と言っても、では今日の歌会がいつもと何が違う、というわけではない。
いつものように粛々とはじまり、お開きになっただけだ。
でも、今日の題詠が「実」であるように、コロナとのつきあいかたにやっと慣れて、
また紡ぎはじめたことを、言葉ではなく質感でかんじるようだった。
ここに、傍らの(歌会がコンサートの傍らになるのかもしれないが
)
大ホールでのシンパシーが乗りこんできていた。
だって。
心臓を紫陽花にとりかえるっていう歌を鑑賞していたんですよ![]()
それも、たいへん穏やかに、慎み深く。
演奏会へ急ぐひとびとと帰るひとびとの時間帯は、
わたしたちのそれとまったくおなじだった。
最上階の貸会議室からエレベーターで階下へゆくので、
大勢の、感動に満ち溢れただろうお客様が途中から乗りこんできた。
すこし数を多くした「わたしたち」にどんな違いがあるのだろう。
短歌を、俳句を、詠むことを、じっとしてはいられない。
わたしは、佐渡さんと反田さんの演奏を聴きながら同時に作歌し作句する。
もし感動というものに上下関係がないというのなら、
それを選ぼう、とエレベーターのなか
御着物をお召しになった上品なお客様の隣で、そうおもったのだった![]()
今日は「短歌ホリック8」を入手しましたので、
今後少しずつ読んでいこうと思っています。
ご期待ください![]()
肝心の
本日の題詠「実」
(反省を元に一部改稿)
梅の実の小鳥の重さが一キロのひと山となり翻れない
自由詠 ![]()
カレールウ入れたら戻れない鍋の火を一度消すとレシピにありて
もうだめだめでした![]()