「実践に移したい産業省の提案というのは、どの提案のこと?」

 「プライバシーコードごとのデータベースとして蓄積されている仮名化ビッグデータへのアクセス権を事業者に有償で与えるという提案です。国の条件を満たす認定事業者に限りますけど」

 「今は、グルメサイトの運用会社に仮名化ビッグデータの無償利用を試験的に許可しているけど、すこぶる評判がいいようだね」

 「飲食店ごとの売り上げ情報へのアクセスだけ許容しているのですが、店の利用客の主観的点数による評価よりもリピート情報の方が高い信頼を得ているようですね。仮名化ビッグデータから得られるリピート率はリアルなデータですから、利用客の主観的な評価点数よりはるかに信頼されているようです」

 「店の利用客による評価とされているものの中には、“やらせ”や“なりすまし”が潜んでいても、一般人が見分けるのは難しいからね。だけど、もう一度行きたくなるような店かどうかというのは、初めて行く人にとっては一番知りたい情報かもしれないね」

 「グルメサイトでの経験から、多くの国民が、仮名化ビッグデータの有効性を実感しているんですね。それを目の当たりにして、あらゆる分野の事業者がこのビッグデータの活用に大きな関心を寄せているようです」

 「仮名化ビッグデータを民間に有償で全面開放するために、細目の法制化を急がんといかんね。ところで、A国の巨大なインターネット・プラットフォーム企業は、悪質な書き込みを封じ込める動きが緩慢で、迅速な対応を正面から要求しても動きが鈍いので、からめ手から攻めると言っていたけど、それとどう関係するの」

 「インターネットを牛耳っているA国の巨大プラットフォーム企業を、少なくとも国内市場においては凌駕するような自国企業を育てたいのです。仮名化ビッグデータは、A国の巨大なプラットフォーム企業が我が国の国民を囲い込んで構築しているビッグデータに比べてはるかに強大です。仮名化ビッグデータは実際の購入実績がすべてデータ化されているわけですから、マーケティングにおける有用性は異次元です」

 「そうなれば、A国の巨大なプラットフォーム企業が、必ずや仮名化ビッグデータへのアクセス権の取得を請求してくるだろうね。そのとき、悪質な書き込みが行われたアカウントを書き込み禁止とする仕組みの導入を認定事業者の条件にしようというわけだね」

 「ご明察のとおりです」

 「国内のベンチャー企業を育てて、優良企業を生み出すためには、税制も大事なんだよね」

 「税制が大事であることには同感ですが、税制はシンプルであるべきだとする原則は曲げない方がいいんじゃないでしょうか。税制上の優遇措置とか補助金とかは、とかく政治家や官僚の利権の温床になりますから」

 「そういえば、補助金とか優遇税制とか、多くの利権が絡んでいる省の大臣ポストにこだわる政党もあったねえ」

 石橋は、畠中に問いかけるように続けた。

 「A国では、大企業がベンチャー投資すれば減税措置を受けることができて、それが多くのベンチャー企業を生み出す原動力になったと言われているんだけど、優遇税制のようなものは乗り気じゃないんだよね」


 石橋の考えが優遇税制に傾きかけたのには理由があった。それは、彼の過去の経験に由来する。彼が政界入りする前に、5年足らずだが、銀行員をしていたときのことだ。
 我が国での起業を難しくしている一因は銀行にあるのではないか、と石橋は感じていた。我が国の銀行は、融資先の将来性を評価する目利き力が貧弱で、担保によって貸し倒れリスクを除却することばかりに熱心だったからだ。とりわけネットワーク関連事業では、その傾向が顕著だという問題意識を抱いてきた。
 そんな石橋が、畠中と出会って間もないころ、強く印象付けられた言葉を彼から聞いた。それは、『事業家は、自分の人生を掛けるというリスクを取り、投資家は、事業の将来性を評価して投資するというリスクを取ることで資本主義は発展した』という、畠中の理解だ。銀行員時代に、ベンチャー投資に消極的な銀行に問題意識を抱いていた石橋の胸にその言葉は刺さった。
 石橋は畠中と、以前この問題について話し合ったことがあった。金融機関には、資金運用のスキルを備えた人材はいてもベンチャービジネスに対する目利きはいない、という点で意見は一致した。金融業界よりも、財・サービスの生産という実業を担っている事業会社の方がベンチャービジネスに対する目利き力が備わっているのではないか、という点でも同じ見方をしていた。
 前政権は、A国で誕生して大成功を収めているLLCと呼ばれる会社形態を我が国にも導入するために会社法を改正し、合同会社の設立を可能とした。しかし、我が国では、合同会社の設立は低調だった。A国では、大企業がLLCに投資すれば減税措置を受けることができるが、我が国ではそのような推進策は何ら講じられなかったからだ。A国のLLCをまねて合同会社制度を導入したものの、“仏を作って魂入れず”状態だと、二人は嘆いた。

 石橋政権が発足すると、税金を取りやすいところから取る応能税から、社会から受けた便益に応じて負担する応益税に軸足を移した。個人税は、所得税を廃止して消費税を主軸に据えた。当初は、消費税は所得の再分配機能がないとか、消費が低迷するとかの批判が渦巻いたが、それはすぐに収まった。実際に新税制が始まると、再分配機能は、累進課税よりもベーシックインカムの方がはるかに強力であり、消費税は直接税化することによって消費時には徴税されず、消費増税しても消費が落ち込むこともないということを、国民は肌感覚で感じ取ったようだ。これらはすべてプライバシーコード効果だ。
 個人税の税制改革は国民に好意的に受け入れられたので、その理念を法人税にも適用する改革案策定に着手していた。利益を課税ベースとする法人税をやめて、消費税と流動資産税の原則二種類に単純化する方針だ。流動資産税は、流動資産の増分に課税するものだが、他社への投資は、債券や証券が現金化されるまでは流動資産税の対象外とする。これが、A国のベンチャー投資減税と同等の効果をもたらすはずだ。
 この法人税制改革は、将来的には、下請け中小企業と親会社のいびつな関係を刷新するきっかけにもなるのだが、この時は、そこまでは思い至っていなかった。


 石橋と畠中によるこのような談義からほどなくして、我が国の仮名化ビッグデータを開放するための骨格が、ほぼ産業省の原案通りに法制化された。具体的な利用料金などの細則は省令で定めるとしている。有能な官僚たちが、前例主義や事なかれ主義から脱皮して、国民最適を目指して発揮される政策推進能力には、石橋は驚き、頼もしさすら感じた。
 省令では、企業の規模に応じて利用料に差をつけ、スタートアップ企業は無償とした。利用料収入は、プライバシーコードごとに検索された実績に応じて国民に配分することとした。こうした粋な計らいを、石橋はたいそう気に入った。

 これと並行して進められていた法人税制改革も、議論が紛糾する局面もあったが、最終的には提案に多少の修正を加えた形で法制化された。
 仮名化ビッグデータの解放が狙っていた最終的な目標を達成するための条件は、これで整った。
 ベンチャービジネスの起業に意欲を燃やす動きは活発化した。その胎動を感じ取った石橋と畠中は、これから経済は確かな足取りで成長するに違いないと確信。そしてそれは、これから起こる社会の大変革の端緒に過ぎないはずだ、とも確信した。今回の動きは産業省の提案から始まったが、その発案をもたらした官僚の意識改革は、産業省固有のものではなく、すべての省庁の官僚たちに共通した意識改革であることを二人はよく理解していたからだ。
 石橋政権は、官僚たちの自分最適な行動が、国民最適な方向と一致するように設計した評価制度の改革が、思惑通りの成果を出し始めたのだ。これからこの社会は、すべての国民が生きやすい社会になると確信し、その時の社会の姿を思い描きながら、石橋と畠中は美酒を酌み交わした。


 それから3年ばかりの時が過ぎた。社会は驚くばかりの変わりようだ。石橋と畠中が想像していたレベルをはるかに超えている。