特別国会は、議長、副議長をはじめ、国会運営に必要な人事を順調に済ませ、首相が所信表明を準備する間もなく閉会した。所信表明は、結局、次の臨時国会の冒頭に行うこととなった。

 その日はやってきた。臨時国会の開会式も滞りなく終え、次は所信表明演説。


 『今、世界は、大きく二分されています。民主的自由主義と独裁的権威主義です。我々は民主的自由主義こそ正しい道であると信じていますが、権威主義国家から聞こえてくるのは、優れたリーダーに導かれる国家は欠点の多い民主主義に勝る、との主張です。だが、どちらが優れているかというような議論はそもそも不毛です。互いに価値観を異にして、それぞれ違う物差しを持っているわけです。違う物差しを持って二つの制度を比較しあっても、そこからは何も得るものがありません。
 そうしたことを踏まえてもなお、民主主義の方が優れていると確信できる要素があります。それは、民主主義の欠点を我々は自覚できているということです。その欠点を政権に有利となるように利用しようと思えば、それも可能です。しかし、そんなことを続けていると、いつか民主主義が廃れます。しかし、欠点を改めようと思えば、可能性は無限です。翻って独裁国家はどうでしょうか。独裁者は無謬性の罠(わな)にとらわれるため、軌道修正が難しく、大幅な軌道修正は代替わりするまで絶望的です。
 では、今の民主主義が改めるべき最も重要な点は何かと言えば、主権在民と言いながら、まったくそうなっていないという現実だと私は思っています。それを改め、真の主権在民、それは、権力在民とも言えるようなものでなければなりません。そのような民主主義を目指すべきだと思っています』


 

 こんな出だしで所信表明演説は始まった。畠中は、テレビ中継でそれを見ていた。

 ―― ずいぶん大上段に構えたものだ

 畠中は驚いた。石橋と事前に議論しあった内容を反映したものとは言え、まさかここまで踏み込むとは思っていなかった。今までの首相所信表明は、国内問題が中心だった。自国中心主義は、N国に限ったことではなく、世界的風潮だ。だが、今回の所信表明は様変わりの出だしだ。
 我々は、世界を見渡す広い視野を持ち、遥か彼方の景色を見定めなければ方向を見失うものだ。暗闇の中では、人がまっすぐ歩けないのに似ている。必要とされる広い視野とは、空間的広がりにとどまらず、遠い将来も見据えなければならない。時空間の中で広い視野を持たなければ、正しい方向に国をかじ取りすることは難しい。
 広い視野を持つためには、情報は多ければ多いほど良い。国会議員は、一般国民よりもはるかに多く政治がらみの情報を持っている。逆に言えば、平均的国民は国会議員に比べれば、一般論として、持っている情報量は圧倒的に少ないはずだ。であれば、主権在民をうたう民主主義は衆愚政治に陥るのが宿命ではないか、と思わずにはいられない。果たしてそうだろうか。二人はこの問題を徹底的に議論した。

 一般国民は、選挙のときに、提示されている選択肢のそれぞれがもたらす将来像をイメージできないまま選択を迫られる。結局は足元の生活が少しでも良くなるように判断するほかない。こうした選挙民に対してバラマキは極めて有効だ。政権与党が、見栄えの良いバラマキ政策で選挙民を誘導して衆愚政治の実践者に仕立て上げ、それを政権維持に利用しているようにしか見えない。そのことについて二人は議論を重ねた。

 石橋は、畠中に問いかけた。

 「国民の情報量が少ない中で、一体どうすれば真の主権在民が実現できると思う?」

 「情報量の多少にかかわらず国民が選択できることもあります」

 「例えば?」

 「例えば、経済政策の最終的な目的を好景気とすべきか国民の生活レベル向上とすべきか、という選択です。好景気が実現できれば国民の生活レベルは結果的に向上するというのが前者の考えですね。それに対して後者は、好景気は国民の生活レベルを向上する上で必要条件ではあるが十分条件ではない、という考えです。その選択にとって、情報量は必ずしも必要ではありません」

 「確かに、それは個人の価値観の問題だから、選択のために政治絡みの情報は必要ではなくて、内省的に考察するだけで十分だね。でも、ほとんどの問題は、十分な情報がなければ国民は選択できないよね。だから、バラマキ政治が民主主義を衆愚政治におとしめてしまうんじゃないの」

 「バラマキ政治を擁護するつもりはいささかもありませんが、民主主義を衆愚政治におとしめる主因はバラマキ政治ではないと思います」

 「ほー。じゃあ主因は何だと思うの?」