石橋は驚いたような顔で探りを入れた。

 「えっ。まさかあれをやろうて言うんじゃ?」

 「そう、あれです」

 お互いにそれで通じ合った。参議院で法案が否決されて、衆議院としてできることは、ずいぶん以前に実際に行われたあれしかない。石橋はすぐにそれを思い出したのだ。そう、衆議院の民営化解散。石橋は、当時を思い出しながらしみじみ語った。

 「あの頃は、行政改革は国民の最大関心事で、その象徴が国営事業の民営化だったんだよね」

 「その法案が、衆議院では可決されましたが、当時はねじれ国会だったから参議院で否決され、それで衆議院を解散したんでしたね」

 「参議院で否決したからといって衆議院を解散というのは筋違いで、大儀なき解散だと批判されたもんだよ。あれは、はじめから3分の2以上の議席を狙った解散で、その意味では首相の胸の内にはそういう大儀はあったんだと思うよ」

 「そのことは決して口に出しませんでしたけどね」

 「そりゃそうだよ。それを言っちゃうと勝敗ラインが3分の2議席になるからね。自分でハードルを高くするようなことはしないだろうよ。実際に3分の2の議席を確保できたのは所詮結果論だからね。で、畠中さんは同じような戦略をとったらどうかというわけだよね」

 「同じように見せかける作戦です」

 「どういうこと?」

 「衆議院で決議する前に、“参議院で否決されたら衆議院を解散してでも定数削減を行うと硬い決意”を情報としてリークするという作戦です。改新党政権のときでなければ定数削減は絶対に不可能だから、という大儀も合わせてリークすれば効果的でしょうね」

 「うーん。ある消息筋からの情報としてそれが報道されたら、保守党はどうするだろうね」

 「我々独自の世論調査では、議員定数削減に賛成する国民は80%を超えています。保守党の独自調査でも同じような結果になるでしょうから、そのようなリーク情報が伝わったら、彼らはどのような行動に出るかですね。石橋さんは保守党の内情に詳しいですから、彼らの行動は、石橋さんが一番的を射た予測をできるんじゃないですか」

 「そうだねえ。彼らはしたたかだから、恥も外聞もかなぐり捨てて、なりふり構わず、負けを最小にする行動に出るだろうな。となると、衆参両院とも保守党は定数削減に賛成するんじゃないかな。もともと自分たちも同じ考えだったというような顔をしてね」

 「それなら、参議院での否決を理由にした無理筋解散はせずに済みますね」

 「しかし、衆議院で議席の3分の2を押さえれば、衆参ねじれ国会でも政権運営が楽になるのに、その機会を失することになるよ」

 「そうかもしれません。でも、参議院で否決された議案を、衆議院の3分の2の賛成で再可決するという手法の多用は、政権を堕落させるので、あまりやらない方がいいと思うんですよ」

 「そう言われると確かにそうかもしれないね。良識の府と言われる参議院をないがしろにするわけだから、政権運営は確かに楽になるけど、それが政権を堕落させるという畠中さんの指摘は胸に刺さるなあ。目が覚めたよ。僕もこの世界に長く居るから、いつの間にか畠中さんのような純粋さを失っていたんだね」

 「純粋と言われると面はゆいです。齢(よわい)を重ねてもいまだに成熟せずに青いだけのことですよ。それはさておくとして、言いたいことは、反対すれば国民の批判を浴びるような良い法案を提案しさえすれば、野党も反対できなくなるはずです。これこそ機能不全に陥っている民主主義を少しでも改善することになるのではないでしょうか」

 ―― 有権者が前回の投票を後から変更できるようにするということの意味はそういうことか

 石橋は、改新党の政策案の奥深さを再認識した。衆議院を通過した国民にとって好ましい法案を、党利党略のために参議院で否決に追いやるようなことをすれば、その党は国民の信頼を失うことは必定だ。前回選挙の投票を変更できるような制度になれば、国民にとって最適な政治行動を取ることこそが党利党略にかなうこととなる。言い換えれば、国民の利害と政治家の利害を一致させる力が働くような制度を実装しようとしているのだ。
 それは、畠中が社会人だったころ、個人最適と会社最適が一致するように人事制度を変えようとした哲学と通底していた。


 石橋は、畠中との長丁場の議論を経て、所信表明の方向性をほぼ固めた。満足のいく内容になるはずだと自信を深めていた。従来の所信表明は、方法論とか努力目標とかを並び立てるだけで、それによってもたらされる結果を何らコミットしないものだったが、それを根底から覆そうと考えていた。
 石橋は、所信表明の素案を書き上げると、仕上げを秘書官に委ねた。数回のチェックと修正を繰り返してそれは完成した。完成した原稿を畠中も見せてもらったが、これが本当に元保守党の議員が描くシナリオなのだろうか、と目を疑った。その変貌ぶりは畠中の想像を超えていた。

 ―― 石橋さんはこの国の統治機構に破壊と創造を行おうとしている

 そう感じた畠中は身震いした。