たまに、大型書店に立ち寄る。詩歌の棚の前で、しばらく立ち止まる。小説やエッセイに比べると、遥に数は少ない。それは、日本の民族衣装でありながら、着る人が圧倒的に少ない着物に通じるものを感じる。
俵万智さんが、「サラダ記念日」で一世を風靡したのは、私が高校生の頃。「缶チューハイ」だの、タイトル通り「サラダ記念日」だの、伝統しかなかったような世界に、若々しい言葉が散りばめられた。古い樽の中に、新鮮な水をこれでもかと流し入れたような衝撃があった。国語の先生ではない先生も、授業で話題にしていたことを覚えている。
昔、まだ独身の頃だった。大きな神社の中の、ちょっとしたホールだったと思う。短歌の講義のようなイベントがあり、参加したことがある。受付で「若いのに」と言われたことがある。
さらに、時実新子さんに憧れて、川柳の門を叩いたこともある。とある結社に出向き、作品を見せた。
「これは現実か、願望か」
と言われた。
和歌と言われるものは、小説を書くようには書けないのだな、小説を読むようには読んでもらえないのだな、と思った。生きづらさだけが残った。
そんな気持ちを救ってくれたのは、俵万智さんだったと思う。
「本当のことを伝えるための嘘は、徹底的につく」
溜飲が下りたような気持だった。
90年代は、俵万智さんに続けとばかり、同時代の女性の歌集が多く出版された時代だったと思う。性をテーマにした作品で話題になった「林あまり」さんも、その一人。一作か二作で消えていく人が多い中、複数出版した彼女は、かなり奮闘したと思う。
大型書店の、詩歌の棚の前に立つ。若い人達が、歌集を出版していないわけではないのだ。角川書店による賞も、地味に続いている。しかし、俵万智さんほど話題になる人は、いまだ出てきていない。
それでも、和歌が世界から消えることはないだろう。微力ながら、私もその一人でいたい。


