枠よりも湧くが疲れない | 独り言が多い珈琲焙煎士のダイヤリー

独り言が多い珈琲焙煎士のダイヤリー

流行りの珈琲に左右されない味を貫く珈琲焙煎士

僕はただひたすらに「おいしい」を届けたいだけ。
自分を磨き続け、澄んだ世界で創る最高の一杯を。

自分がどこに居るのか。 答えは「此処」 なんだけど。

 

 

それでもこの世界に生きるひとは体裁を保とうとする動きに自らの身を委ねがちで

 

その存在を 何かにとっての自分 ありきで判断してしまおうとする。

 

 

SNSに散りばめられた "造られた「在り方」” はとても見苦しく感じ

 

その当人の軸の所在などパッと見では判別がつかず、つまらなく見えてしまう。

 

 

僕が好きなのは 少々生臭かろうが 薄汚れていようが

 

そのひとが人間であるということを

 

直に伝えようとせずして 滲み、醸し、伝わるタイプのひとだ。

 

 

いいじゃないか 生々しい感情をもっとぶつけろよ、って。

 

 

評価する側・される側の関係性に対しても 自分は似た感覚を持っている。

 

そもそも一流であるひとは 何をするにも考えるにも一流だと聞いたことがある

 

自分もそれには強く同意できる。 どんな言動が当人から表出していようが

 

そのひとが一流として評価されるべきひとならば 自然とそう評価されていく。

 

「頑張る事」「気張りすぎること」はむしろマイナスなのだと。

 

誰かのした行いひとつひとつに対する評価ではなくて

 

もっとその人その人のトータルな在り方やり方を見れる世界であってほしい。

 

 

「こういうものだから」 「こうしておかねばいけないから」

 

その決まり 誰が作ったんだろう? 誰に押し付けられたんだろう?

 

 

"枠" を設けていない! なんでもできると言うひとほど

 

自ら足枷をはめ 自ら首を絞めて苦しい苦しいを口に出す

 

本当に 癒されるべき存在 はそういうひとが心に背負った何かなのだと思う。

 

枠にはまらない生き方をしている 枠にはまりたくない のではなく

 

枠にはめられるのがこわい という過去の経験が作った恐れなのかもしれないのだから。

 

(あぁ、自分もそういう所あるか・・笑)

 

 

そりゃ他人事だから 実際はどうかなんて

 

自分には想像もつかないし、誤解かもしれない。

 

 

けど個人的な見解・感想として 自分に何かを強いるひとって

 

「大丈夫かな」「無理してないかな」とついつい思ってしまう。

 

でも、もしかしたら思っちゃいけない感情なのかもしれないしで。難しい。

 

 

「イマココ」に集中しようとしているひとほど

 

過去や未来に思いきり未練と執着を感じてしまうものなんだろうか?

 

同じように自分だって、本当に今に今を生きれている自信はないけれど。

 

 

 

先日 お客さんと 組織の中で働くことと自営業の環境を

 

同じように考えるべきじゃないなというハナシをしたんだけれど

 

その時はそうだよね~と腑に落ちていたけど どうだろう

 

再考しているほどに 「そうか?」 に変わっていく感覚が湧いた。

 

 

これは自分が自営業者として思ったことなんだけれど

 

そもそも論のハナシで 「自分は自営業者だから」 という

 

その"枠"をいちいち作ってしまうことが違うんじゃないかと思うし

 

雇われの身だからという感覚で居続けることも

 

ひとつの怠惰や甘えになりかねない感覚とも思う。

 

自分も雇われの身分だった学生時代のアルバイトだったり

 

会社員時代にそういう感覚をついつい持ち歩いてしまっていた。

 

 

きちんとした役割に対する責任感やプラスの力が携わっていればいいが

 

もし安定や保守、組織に守られているという感覚の割合が大きいならば

 

それはちょっと大きな脆弱性を孕んだ保身的思考なのかもしれない。

 

 

間違いなく きれいごとで実際に綺麗になる世界の(ある一面)は

 

存在するんだろうなと思っているし、実際そうなって場面を沢山見てきた。

 

ただ、そこへの過度な執着が生むネガな面はゼロではないと思う。

 

なんでもバランスを崩してまで綺麗に固めて行くべきではないということだろう。

 

 

なんか、無理くり造られたものは 見聞きしていると疲れてしまう。

 

もっと自然体で居れることを良しとする世界線に居たいなぁー

 

 

いや、居たいなぁというか・・

 

さっさとそういう世界に行くことにする。

 

随分前から夢見続けた 自分の未来だから。

 

 

俺の終活は、もう始まってる。笑