最近、アジアの大国のコメントで法の尊厳が尊重される必要があるという主張がなされました。その主張について考えてみたいと思います。



 そのコメントの元になった出来事は、当該国の人権思想家の人のノーベル平和賞の受賞です。当該国では、法の侵犯者として刑罰を受けている人が、いわば犯罪者がそのような栄誉ある賞を受賞するというのは確かに、奇異な、納得できざる問題ある事件であります。


 しかしながら、そのコメントはあくまでも政権当局が発した政治的な発言であって、信憑性なり、真理性なりからすると、全く疑わざるを得ない独善的で、まさに専制的な主張であるということは、民主的な思考に馴染んだ我々からすれば、明々白々な事柄です。


 とはいえ、その主張自体、法が尊厳を持つべきものであるという主張自体は、それだけを取り出さば極めて正当な論理であるということになります。それだけに、政権当局は、正々堂々とその主張を言明するわけであります。


 では、なぜ正論たるその法は尊厳を持つべきであるという主張が問題にならざるを得ないのでしょうか。


 それは、法の尊厳の下に何を抑圧しようとしているのかという問題であります。法よりも先に、尊厳をすべきものがあるだろうという当然の発想がでてこざるを得ないことは、これまた明々白々であります。何のための法であるのか、ということを当局者に質問をしてみたくなるのは、私だけでありましょうか。


 言うまでもなく、人間のための法であって、法のための人間ではありません。まず第一に尊厳すべきものは、法ではなく、人間ではないのでしょうか。論理は、これに尽きるのではないかというのが、私の見解であります。



 法の尊厳か、人間の尊厳か、比較にならない議論ではないでしょうか。