二、三日経ってから、幸男は会社を休んで朝早く市役所の窓口を訪れた。そこは以前達夫のことで相談をした所だった。

 幸男は、またあの女性職員に話しを聞いてもらいたいと思っていたが、その職員の名前を忘れてしまったため、行っても会えるかどうか不安だった。

 目的の部署のカウンター前に着くと、ちょうどその女性職員が自席でおいしそうにお茶をすすっているのが見えた。

「おはようございます!」

幸男はうれしさのあまり大きな声で挨拶した。

 すると周りの職員が一斉に幸男の方に振り向いた。その女性職員も一瞬びっくりしたようだったが、すぐににこりと笑って、幸男の方に向かってきた。

「おはようございます。ご用件はどんなことで御座いましょうか。」

その女性は、微笑みながら優しく幸男に尋ねた。

「以前、父のことでは大変お世話になりました。おかげさまであの後すぐに施設に入所できたのですが、3ヶ月程して亡くなってしまいました。でも、最期まで人間らしい生活を全うできたのではないかと思っております。」

幸男は自信に満ちた声で言った。

 するとその職員は、思い出したかのように挨拶した。

「あ、覚えております。お父様の施設入所の件で御相談にいらっしゃったお客様ですね。そうですか、お亡くなりになったんですか。」

その女性は残念そうに答えた。

「はい。でも、あなたのおかげで私どもはどんなに勇気づけられたかはかりしれません。本当にありがとうございました。」

幸男は深々と頭を下げた。

「いえいえ、とんでもありません。ただ、少しでもお父様のお役にたてたのであれば私もうれしく思います。」

彼女もまた深々と頭を下げた。

「実は、今日は私の母のことで御相談にのっていただきたく参りました。」

幸男は思いきって母親のことを切り出した。

「かしこまりました。まずは、いすにお掛けください。」

彼女はにっこりと笑いながら幸男に促した。

 

 幸男は、職員にこれまでの和子の言動を思い出せる限り順序立てて話した。医師の診察結果や今服用している薬についても話した。

 彼女は幸男の話にじっと耳を傾けていた。そして、幸男が一通り話し終えると、彼女は口を開いた。

「今伺ったお話から推測しますと、まずお父様と同様に要介護認定の申請をしていただいた方がよろしいかと思います。要介護認定が下りれば在宅でも施設でも様々なサービスが受けられます。もしお母様に要支援2以上の判定が出れば、今のお母様の状態ですと『グループホーム』での生活が適しているかもしれません。『グループホーム』と申しますのは、認知症で安定した状態の高齢者の方がお住まいの地域の住み慣れた環境の中で、少人数の家庭的な共同生活ができる施設です。ただし、介護状態が重度になると退所が必要になる施設ではあります。ちなみに1ヶ月あたりの費用ですが、住居費、食費、介護保険や医療費の自己負担分などすべて含めておおむね20万円前後が一般的です。」

幸男は必死になってメモをとった。

「当市にもいくつかありますので、ただいまパンフレットをお持ちします。それを御覧いただきながら御説明させていただきます。」

彼女は席を立ち、少し離れた書棚に向かった。

 幸男は、彼女の後ろ姿を見つめていると、『今度も大丈夫だ。』と思えてならなかった。 

 

マスターはすべて読み終わると、原稿を静かに置いた。

「この私も、いずれ君のおじいさんのようになるかもしれないな。」

マスターは優しいまなざしで、その女子学生を見つめた。

 女子学生はそれに対して何も言わなかったが、少し間を置いて、コーヒカップを持ち上げて言った。

「マスター、モカのお替わりください。」

 マスターは嬉しそうに立ち上がった。

 

 

 

 和子の番になった。和子は医師の前のイスに座った。

「最初に母さんから診ていただこうね。」

幸男は即座に言った。

 和子は少し不思議そうな顔をしたが、素直に応じた。

 和子は医師から簡単な質問をいくつかされた。傍らでじっと見守っていた幸男にとっては見ているのが辛かった。

 今日の日付、自分の生年月日、住んでいる場所などは簡単に答えられたのだが、夫に関する質問をされたとき、和子は達夫がまだ生きているかのような話しをしたのだった。

「今日もお父さん一緒じゃないんだねえ。どこに行ったんだろうねえ。」

 すると医師は和子に話しかけた。

「達夫さんはお亡くなりになったと聞きましたよ。」

「え、死んじゃいませんよ、先生。あの人はピンピンしてますよ。ねえ、幸男。」

和子は幸男に賛同を求めた。

 幸男は首を振りながら言った。

「父さんは先月亡くなったんだよ。だから、ここにもいないんだよ。」

「お葬式はやったのかい?」

和子は意外そうな顔をして幸男に尋ねた。

「もちろん済ませたよ。母さんも喪主として参加したじゃないか。」

幸男は少しイライラした。

 病気なのだからちんぷんかんぷんなことを言うのは仕方ないとわかっているつもりなのだが、一方で何でこんな明々白々なことがわからないのか不思議で仕方なかった。

 そんな幸男とは対照的に、医師は、淡々と落ち着いた調子で和子からの回答を真摯に受け止めていた。

 

 診察を終え、和子と一緒にイスに座りながら会計の順番を待っている間に幸男は和子の今後のことについて考えを巡らせていた。このまま和子を実家に一人で住まわせていいものだろうか、自分たちと一緒に暮らすべきではないだろうか、このまま一人にしておいたら火事でも起こすんじゃないだろうか、頭の中に浮かんでくることがすべて否定的なことばかりだった。

 その時、ふと幸男の頭の中に一人の女性の姿が浮かんだ。

「そうだ、あの人に相談してみよう。あの人ならいい知恵を貸してくれるかもしれない。」

 幸男にとって、認知症について書かれた本を読むのは初めてのことだった。認知症という病気のこと、症状、治療方法のこと、薬のこと、接し方、症状が進行したときの対策など様々なことが書かれていた。

 幸男はその本を読み進めるうちに、母親の和子の言動が紛れもなく認知症の症状を呈しているとしか思わずにはいられなかった。

「ああ、やっぱりそうだったか。」

 幸男はため息をついた。医師に認知症と診断されても、自分の母親が認知症だとは思いたくなっか幸男にとって、その本に書かれた内容は、幸男に対し現実を受け入れることを迫っていた。

 幸男は買ってきた本に赤でマーカーを引きながら、3時間ほどかけて読み込んだ。

 一通り読み終えるとなんだか落ち着いた。今まで言葉でしか知らなかった「認知症」という病気を客観的に見ることができた気がした。完治しない病気ではあるが、薬の服用や体と頭のトレーニング、そして何よりも家族の接し方によって、病気の進行をくい止めるだけでなく、人によっては劇的に改善することもあることを知り、幸男は逆に希望までもつことができたのだった。

 

 次の土曜日、幸男はまた和子を連れて病院に行った。和子は落ち着いて待合室のイスに座っていた。

「幸男、まだ風邪が治らないのかい?」

和子は心配そうに幸男の顔を見た。

「そうなんだよ。まだ良くならないんだ。母さんもついでに診てもらうといいよ。」

幸男は優しく言った。

「私は風邪なんか引いちゃいないよ。」

和子は笑った。

 1時間ほどして医師との面談が終わった。先に和子が看護師に付き添われて診察室を出た後、医師は幸男に和子のMRIの画像を見せた。

「MRI検査の結果、お母様は、アルツハイマー型認知症を発症されています。ただし、今はそれほど重度ではありません。お薬をきちんと飲み続ければ症状が急速に進むことはありません。」

「それじゃあ、母の認知症は治るんですか?」

幸男は尋ねた。

「いえ、お薬を飲んでもこの病気は完治しません。ただ、病状が急速に進むのを抑制するだけなんです。認知症を完全に治癒する薬はまだないんです。」

医師は残念そうに言った。

「そうなんですか。」

幸男はそれ以上言葉が出なかった。

「まずは、お母様には今後定期的に通院していただき、ご本人の様子を診ながらお薬の種類や量を調整させていただきたいと思います。私もご本人にあった治療を心掛けていきますので、息子さんも決して悲観しないでください。お母様のために一緒に協力していきましょう。」

医師は力強く幸男を励ました。

 

 幸男と和子は病院の会計窓口前のいすに座っていた。

 幸男は、和子の名前が呼ばれると窓口で支払を済ませ、和子の処方箋を受け取った。

「母さん、後は薬局で薬をもらってお仕舞いだからね。」

幸男は元気な声で言った。

「お前、風邪でも引いたのかい? 大事にしないといけないよ。」

和子は心配そうに幸男に話しかけた。

 幸男はその言葉を聞いて、母親の子を想う気持ちに病気など関係ないのだと感じた。

 

 和子を自宅に送り届けると、幸男は本屋に立ち寄った。認知症に関する本が欲しかった。

 3冊ほど買い込むとまっすぐに家に帰った。家では美子が待っていた。

「お母さん、どうだった?」

開口一番、美子は玄関まで飛んできて幸男に尋ねた。

「やっぱり、認知症だったよ。」

幸男はぽつりと言った。

「そう。」

美子はそれ以上何も言わなかった。

「だから、認知症の本を買ってきた。これから、母さんとどう接していくのがいいのか勉強するよ。」

幸男は元気を絞り出すかのように言った。

 待合室で待っていると、10分ほどして和子が呼ばれた。幸男はドキドキしながら和子と一緒に診察室に入った。

 中にはいると、白いワイシャツに紺のネクタイを付けた40代半ば位の男性医師がにこやかに笑いながら椅子に座っていた。幸男は、白衣を着た医師という一般的なイメージとは違っていたので少し戸惑った。

 

「中村和子様ですね。」

 医師は優しく尋ねた。

「はい。」

 和子は元気に答えた。

「今日は和子さんにいろいろとお聞きしたいことがあるので教えてもらえますか?」

 医師はまるで子供に語りかけるかのようにゆっくりと優しい口調で話しかけた。

 すると、和子が逆に質問した。

「先生、私どこが悪いんでしょう。」

 医師は笑顔を変えず答えた。

「今日はそれを調べるんです。もしかしたら悪いところが見つかるかもしれません。もし悪いところが見つかったら、一緒に治していきましょうね。」

「そうだ、先生、私ね、足が悪いんですよ。それに腰も最近痛くてね

え」

和子は右足のすねや腰をさすりながら訴えた。

「それはいけませんねえ。」

 そう言いながら、医師は自分の手で和子の足をさすった。

 

 更衣室で検査服に着替えると、和子はMRIによる脳の検査を受けた。その間、幸男は待合室で待機していた。

 検査は30分ほどで終わり、和子は看護師に促されて元の服に着替えた。

 幸男と和子は再び診察室に入った。すると、医師は和子に対していくつかの質問をした。和子の生年月日、達夫の生年月日、和子の子供たちの名前、今日の日付と曜日、今日の天気などなど、通常だったら普通に答えられるような簡単な質問を20問ほどした。

 幸男はそのやりとりを側で見ていて、やはり和子のおかしな所を見せつけられた。それは、達夫に関する質問をしたときだった。

 医師は、和子に自分の夫の名前を尋ねたとき、和子は「達夫です。」と正しく答えたのだが、次に達夫の亡くなった日を尋ねると、和子は奇妙な返事をした。

「先生、うちの人はまだ死んでないですよ。今日も一緒に来てるんですから。ねえ、お父さん。」

和子は、幸男を見てそう答えたのだった。

 その時、幸男は慌てず優しく和子に言葉をかけた。

「母さん、俺は幸男だよ。父さんじゃないよ。父さんは亡くなったんだよ。」

 すると、和子は不思議そうに尋ねた。

「そうだったかねえ。さっきまで一緒だった気がするんだけどねえ。」

 幸男は、和子が普通じゃない状態を医師の前で証明できた気がしてある意味ほっとした。