幸男は和子を助手席に乗せると静かに車を出した。病院までの道すがら和子は窓の景色を眺めていた。幸男は、その様子をちらちら見ながら、たとえ最悪の結果が出ようとも最期まで息子として面倒を見ようと思うのだった。

 10分ほどで病院に着いた。幸男は駐車場に車を停めると、すぐさま車から下りて助手席のドアを開けた。

「母さん、着いたよ。」

幸男は優しく話しかけた。

「ありがとう。」

和子は微笑んだ。

 幸男は決して焦らずに和子の歩幅に合わせて歩いた。

 

 病院の受付で手続きを済ますと、幸男は和子と認知症外来の待合室に向かった。そこは、病院の1階の奥まったところにあり、そこの空間だけ壁紙が薄いピンク色で、クラシック音が静かに流れていた。すでに3組ほどの患者がおり、幸男と和子は空いているソファに座った。

 程なく、看護師らしき中年の女性が声を掛けてきた。

「中村様でいらっしゃいますか?」

 女性は笑顔で話しかけてきた。

「はい、そうです。」

 幸男はとっさに答えた。

「こちらの方が和子様でいらっしゃいますね。私は看護師の関根と申します。このあと医師との面談を受けていただきますが、私がすべてサポートさせていただきますのでどうぞご安心ください。和子さん、なにも心配いりませんからね。」

 看護師は笑顔で、そして優しい声で和子に言った。

 幸男は和子のおかしな言動が気になって仕方なかった。「もしかしたら」と思うと、「いやそれは年のせいだ」と自分の中でその不安を打ち消した。

 そんな日が一週間ほど続いたある日の夜のことだった。幸男は居間で美子と一緒にテレビを観ながらくつろいでいた。そこへ一本の電話がかかってきた。それは和子からだった。

「幸男かい? お母さんだけど、お父さん、そっちへ行ってないかい? まだ帰ってこないんだよ。お母さん、心配で心配で。どこへ行っちゃったのかねえ。」

幸男は、和子のその言葉を聞いて観念した。

 幸男は意識して冷静さを保った。そして、できるだけ優しく話した。

「母さん、父さんはもう半年以上も前に亡くなったんだよ。父さんはもうこの世にいないんだよ。だから、父さんは家にいないんだよ。」

 すると、和子は合点がいったらしく、大声で笑った。

「そうだったねえ。私、うっかりしてたよ。」

幸男はそれを聞いても嬉しくなかった。

 和子は変な電話をかけたことを詫びると電話を切った。

 幸男は、和子を病院に連れていくことを決心した。

 

 初夏を思わせる日差しの強い土曜日の朝だった。幸男は車で和子の自宅まで来ていた。

 幸男は和子に病院の件をどう切り出そうと思い悩んだが、結局は幸男が倒れる原因となった脳梗塞を出汁に使い、一度和子も病院で検査した方がいいと薦めたところ、和子はあっさりと承諾してくれたのだった。

 都合のいいことに、幸男の入院していた病院に認知症外来というものがあったため、幸男は和子をそこで診てもらうことにしたのだった。

 

「母さん、支度はできたかい?」

幸男はお茶を飲み終わると和子に尋ねた。

「ああいいよ。そろそろ行こうとするかね。」

和子は愛想よく答えた。

 このところ和子の言動に不可解な部分が見受けられなかったため、幸男ももうしばらくは様子を見ようかとも思ったが、自分自身を安心させるためにも、結果はどうであれ一度医師の診察を仰ぎたかった。

 達夫の死から半年ほどたったある日のことだった。新盆で達夫夫婦の親類縁者が菩提寺に集まった。幸男も美子も、お寺との調整、駅までの迎え、食事の手配やお茶出しと慌ただしく動いていた。和子は集まってきた親類に挨拶をしたり世間話をしていた。

 住職がやってきて、祭壇の前に座り読経が始まった時だった。和子が奇妙なことを言った。

「あれ、お父さんはまだかい?」

幸男はそれを聞いて一瞬耳を疑った。美子も怪訝な顔をした。

「幸男、お父さんはどこに行ったのかねえ。」

和子はまた同じようなことを言った。幸い他の親類には聞こえていないようだった。

「母さん、何言ってるんだよ。父さんはいないよ。死んだんだから。」

幸男は和子に耳打ちした。

「父さん、死んだのかい?」

和子は不思議そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。

幸男も訳が分からなかった。

 読経が始まってしばらくすると、住職から焼香を促された。すると、和子は何のためらいもなく仏壇の前に進み出て、静かに手を合わせるとそのまま自分の席に戻った。幸男はそれを見て一抹の不安を覚えた。

 

 一通りの法要が終わり親類縁者が一堂に会しての会食が始まった。和子は何事もなかったかのように、親類一人一人にお酌をしながら今日のお礼を述べていた。その様子を見ていて、幸男はさっきの和子の言葉は何だったのか一層わからなくなった。

 和子が自分の隣の席に戻ってきたとき、幸男は思い切って和子に尋ねた。

「母さん、さっきは何であんな事を言ったの?」

「あんな事って何だい?」

和子は不思議そうに聞き返してきた。

「さっき、母さん、父さんはどこに行ったのかと俺に聞いたじゃないか。」

「そんなこと、私聞いたかねえ。お父さんはあの世に行ったんだろ?」

和子は幸男の意図が理解できないようだった。

「そういう意味じゃなくて、父さんがなぜこの場にいないのか聞いてたじゃないか。」

幸男は少しイライラした。

「さて、私そんな変なこと、お前に聞いたかい? お父さんは亡くなったんだよ。」

幸男はその言葉を聞いて、和子が嘘は言ってはいないと思うしかなかった。

 それから一週間後、達夫はICUで治療を受けたが、結局一度も意識が戻らないまま家族に見守られながらこの世を去った。

 幸男は喪主の和子に代わって、通夜、告別式をすべて取り仕切った。達夫の死を死を悲しんでいる暇などなかった。

 火葬を終え、達夫の位牌を実家に送り届け、自宅に帰ると、急に疲れがどっと出てきた。幸男は着替えもせず、そのまま居間で座布団を枕に寝てしまった。

 夕方、幸男は目を覚ました。妻の美子が台所で料理をしていた。

「おれ、寝ちゃったのか。」

幸男は目をこすりながら言った。

「そうよ。あなた、家につくなりそのまま疲れたと言って、寝ちゃったのよ。疲れてたんでしょう。ずっと動きっぱなしだったものね。」

美子は幸男を労うように言った。

「そうだなあ。父さんが倒れてから亡くなるまであっという間だったからなあ。泣いている暇もなかったなあ。」

幸男はしみじみ言った。

 

 幸男は実家に電話をかけてみた。和子がすぐに出た。

「母さん、大丈夫かい? 疲れてないかい?」

幸男は心配そうに尋ねた。

「私は大丈夫だよ。それより、お前の体が心配だよ。何から何までお前にやらせてしまって。すまなかったねえ。」

和子は心から詫びた。

「そんなこと気にしなくいいんだよ。おれは長男なんだから。当然のことだよ。」

幸男もまた和子の気持ちを察した。

 

 初七日を済ませた日の夜、幸男と美子は和子の家にいた。ちょうど夕飯を済ませると雨が降ってきた。

 和子は風呂に入り、美子は台所で洗い物をしていた。幸男はふと線香が消えているのが目に入り、達夫の位牌の前に座った。

 ろうそくで線香に火をつけると、白い煙とともにほのかに甘いラベンダーの香りが漂ってきた。りんを2回たたき、静かに手を合わせた。りんの音がだんだんと引いていく中で、幸男の目に涙があふれてきた。それは悲しみからくるというよりも、今までの父との思い出が走馬燈のように一気に幸男の中を駆けめぐり、父に抱かれる安心感みたいなものに包まれた感じからくるものだった

「父さん、母さんのことは俺に任せてくれ。心配しないでね。」

幸男は心の中で静かに念じた。

「お父様の状態ですが、精密検査の結果、脳梗塞を再発されたことがわかりました。今のところ安定されています。ただし、余談を許さない状況ではあります。そこで、ご相談なのですが、万が一に備えてご家族のお気持ちを確認させていただきたいのです。」

医師は神妙な顔で言った。

「万が一に備えてですか?」

幸男は声が震えた。

「そうです。」

医師は当たり前のように言った。

「今後、万が一お父様が自力で呼吸ができなくなったり、心配停止になった場合、医療的処置として二つの選択肢があります。一つは、人工呼吸器は付けず、可能な範囲で点滴や心臓マッサージを行うやり方です。二つ目は人工呼吸器を付けて、場合によっては電気ショックなどを行うやり方です。ただし、人工呼吸器は一旦付けるとご家族の判断で取り除くことはできません。」

医師は幸男の目を見て言った。

 幸男はたまらず目をそらした。すると視線の先に、太くて白い管を口の中に入れられている老女の顔が目に入った。規則正しく空気を送り込んでいると思われる機械音が病室に静かに響きわたっていた。

 幸男はそれを見て人工呼吸器をつけた父の顔を想像した。そして、たまらず首を横に振った。

「先生、人工呼吸器はやらないでください。そこまでしなくて結構です。」

幸男はそう言いながら自分自身を納得させた。

「母さん、それでいいよね。」

幸男は和子に尋ねた。

和子は何も答えなかった。ただ、達夫の手を握り、達夫の顔をじっと見つめているだけだった。

 幸男はそれを見てそれ以上何も言えなかった。

 

「それでは、必要書類の作成にご協力をお願いします。」

医師は事務的に言った。

 幸男は、達夫が危篤状態に陥った場合には、必要最低限の医療的処置のみを求め、それ以上の延命処置は求めない旨の書類にサインした。 

「これでよかったんだろうか? もう少し考えてからサインすればよかったんじゃないか?」

幸男は自問自答した。