テレビとは、長い付き合いになる。
今から50数年前、私の幼稚園時代・・・。
我が家には、テレビが無かった。
大きな木製の箱で出来たラジオが、唯一の音声メディアとして活躍していたのである。
当時のラジオは、形もごつく、立派で、実に存在感あふれるものだった。
茶の間の出窓に鎮座したそれは、ガーガーという雑音混じりの音で、情報を送り続けていた。
時折、パタッと音が止まるのは、ご愛嬌。
大人たちは、その度にラジオ本体の横腹を、「バン。」と手で叩き、音を復活させるのだ。
真空管で作られたラジオは、ハンダ付けで回線が繋がれていたから、ちょっとした接触不良は、このような
原始的な方法で直っていたのである。
ラジオから流れてくる情報など、小さな子どもにとってそれ程興味があるはずもない。
私は、ラジオには見向きもせず、妹たちや近隣の友人との遊びに熱中していた。
もちろん、テレビの存在は知っていたが、大好きな『ひょっこりひょうたん島』を近くに住むお友達の家で
見せてもらうだけで十分だった。
当時、私は、自分の家にテレビが来る生活等、考えも及ばなかったのである。
時は1960年代に入り、日本は『高度経済成長期』を迎えた。
私も、小学校に入学し、新しい世界の中に飛び込んだ。
当時、世間では「安かろう、悪かろう」「消費は美徳」という言葉が飛び交っていた。
浮足立った経済発展に翻弄されていた気もするが、世の中は活気にあふれ、「世界のアメリカ」に
追いつき追い越せで、電化製品が急速に各家庭に普及していく。
冷蔵庫と洗濯機、そしてテレビ(もちろん白黒)が、「3種の神器」として持てはやされた頃だ。
熊本の国体開催、皇太子の御成婚、東京オリンピックといった社会の大きなイベントが目白押しで続いた。
その流れの中で、地方都市熊本でも、テレビは各家庭に普及していったのである。
そして、我が家にも同じ頃に、テレビがやってきた。
NHKと教育テレビ、そして1つ2つの民放しか無かったのに、この新しい不思議な映像の映し出される箱に、
皆夢中になった。
ちなみに、1963年第14回『NHK紅白歌合戦』は、歴代の最高視聴率81.4%をたたき出している。
最近のドラマの最高視聴率は『半沢直樹』の42.2%だから、いかにその数値が群を抜いていたかが
わかるだろう。
人々にとって、テレビは唯一の映像メディアとして定着し、逆にテレビが無ければ生活が成り立たないほどの
感覚にとらわれることになった。
とにかく、テレビの力は偉大だった。
それまで外で遊んでいた子どもたちも、鉄腕アトムやウルトラマンに夢中になり、大人たちも歌番組や
ドラマにのめり込んだ。
リアルタイムで放送されるニュース番組も、新聞や雑誌とは全く異なるメディアとして大きな力を持ち、
定着していく。
テレビの普及に伴い、「一億総白痴化」などという過激かつ不穏当な言葉までが、流行語となった。
この表現は、
「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。
ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開
されていると言って好い。」
という、評論家・大宅壮一氏の論評(1957年・『週刊東京』掲載)に根差している。
表現に違和感はあるものの、要は、メディア依存が蔓延する世の動きに危機感を持ったということだろう。
低俗なテレビばかり見ていると、考える力が衰えていくぞ、大変なことだぞ、と危惧したのである。
もちろん、この論評には賛否両論があった。
報道の自由が叫ばれる中、調査報道で世の中の不正が暴かれもした。
リクルート事件しかり、桶川ストーカー殺人事件しかり。
マスコミの正義は、テレビやラジオを通じ、国民に真実を知らしめた経緯もある。
何も、番組の全てが「低俗」な訳ではない。
もっといえば、「低俗」と言われた番組も、見方によっては価値が逆転する事も指摘された。
テレビがほぼ全世帯に普及したからこそ、こんなに問題視されたのかもしれない。
紆余曲折を経ながら、テレビはその存在感を確固たるものとし、そして多大な影響力を持つにいたった
のである。
そういう時代を経て、テレビに慣れ親しんできた世代は、もう後戻りが出来ない。
お年寄りにとってのテレビは、生活そのものだし、生きがいになっていることもある。
働く世代は、家でのテレビ視聴で様々な情報を得ているし、また、子育ての中でも、テレビはどこかしこで
活用されているではないか。
最近ではネットがテレビを席巻しつつあるが、まだまだその影響力は計り知れないのである。
では、テレビをはじめとしたマスメディアは、何を大衆に提供すると考えたらよいのだろう。
たくさんの人々に同時に情報を伝達する手段として発達したのがマスメディアである。
こう考えると、マスメディアが目指したものの一つが、ジャーナリズムの活動であった事に間違いは無い。
ジャーナリズムというのは、本来、調査・分析を通じて行う論評の活動を言う。
その根底には「権力にもの申す」といった固い意志のようなものが必要だ。
先日来テレビで会見を行って話題になったみのもんたさんは、元々ジャーナリスト志望だったとのことだった。
テレビというメディアを通して、視聴者に向かい自分の見解や意見を言うことを、理想に掲げておられたの
だろう。
なかなか大変なことだとは思うが、それこそがメディア利用の真骨頂のような気がする。
結果、多くの人が目や耳を傾け、時の権力や政治について考えてくれるならば、それにこしたことは
ないからである。
だが、振り返ってみると、多くの人が目や耳を傾ける対象が、そんな「硬派な論評」とは異なる事が多い。
楽しく、明るく、笑えるもの。センセーショナルな出来事。スキャンダル。
感情に訴えてくるような泣ける話、怒れる話・・・。
挙げればきりがないが、視聴者が求めるものは、いきおい保守的・低俗なものに流れていくのである。
テレビというのは、そういう意味で両刃の剣なのだ。
テレビを作る側は、視聴率が大きな指標になる。
1億2700万の人口を抱える日本では、視聴率1%は、なんと127万人だ。
数を考えると、スポンサーが付くのにもこの視聴率は大事なことに違いない。
視聴率稼ぎを優先するが故に、視聴者に迎合し、バラエティ番組が闊歩する。
人々の関心を誘い、娯楽を求め、面白さや下世話な話に終始する限り、内容は低俗にならざるを得ないのだ。
娯楽は大事だが、テレビの持つジャーナリズムとしての誇りを忘れて欲しくは無い。
硬派な番組に出会うと、ほっとするって実におかしい話である。
視聴者である私たちも、望む情報について、再考する事も必要なのではないか。