暴力について | くにこ先生のコーヒーブレイク

くにこ先生のコーヒーブレイク

通りすがりのあなたに、心に残るお話をひとつ

 「私、あれ、やっぱり虐待受けてたんですかねぇ。」

 絵里ちゃんがつぶやいた。
 

 もう、ずいぶんと前のことだ。
 すっかり忘れていたこの言葉を、最近あらためて思い出した。


 全国で次々に明らかになる教員による体罰問題は、様々な議論を呼んでいる。
 ある会見では、説明する教育委員の方が、「頭をこつんとたたいた」だとか「頬をぱちぱちと両手ではさんだ」
 だとかいう表現を使っていた。
 しかしながら、本当はとてもこんな表現ではすまなかった現実があったであろうことを想像するのは
 たやすいことだ。

 悲しいことに、私の記憶の中にも、教師の体罰は映像として残っている。
 私自身は、体罰を受けた経験はないが、友人や生徒たちが受けたそれは、私に強い恐怖を植え付けた。
 人が人を叩いたり痛めつけたりすることは、私にはどうにも受け入れられない。

 「愛情があるからこその体罰だ」などという人たちもいる。
 だが、「愛」と「暴力」は対極の概念なのではないか。


 さて、絵里ちゃんは続ける。
 私の周りにいた数人の学生さんたちも興味津々に話に聞き入っている。

 「授業で、児童虐待ってあるじゃないですか・・・。もしかして、私も、そうだったのかなぁって・・・。」
 「何かされてたの?」
 「小さい頃は、よく柱にくくりつけられてました。叩かれるのは普通だったし。」
 「えー、そうだったん。」
 「よく叩かれてたの?」
 「うん。しょっちゅう。だけど、平手打ちだけじゃないですよぉ。木の棒だったり、ほうきだったり。」
 「え・・・。」
 「そんなん、序の口ですよ。お風呂に顔付けられて溺れそうになったりとかしましたし。
  髪の毛つかまれて水の中に押し付けられてましたよー。」
 ・・・・・・

 話を聞いていると、お父さん・お母さんから受けた絵里ちゃんの虐待体験はもっともっと深刻な様相だった。
 よく耐えてきたなぁ、とびっくりするくらいの内容だ。

 今はもう親元を離れたから、客観的にその当時を見ることが出来るのだ、と彼女は淡々と話し続けた。
 時折、笑顔を見せながら、絵里ちゃんは虐待されていたという子供時代を振り返っている。

 「そんなことあったの。大変だったねぇ。」
 「えー、大変じゃなかったですよー。」
 「ん?」
 「だから・・・、大変じゃなかったんですよ。だって、周りのみんなも言わないだけで、同じことされてると
  ばっかり思ってたんですもん。」
 「同じことって?」
 「柱にくくられたり、水につけられたり、叩かれたり・・・。」
 「ないないない。」
 「そんなことなかったよぉ。絵里ちゃんとこ、すごかったんやね。」
 「うーん。やっと、最近になって、あれ、おかしかったんだなぁって思うくらいだよ。怒られるのは普通で、
  そんなこと、みんな話さないようにしてるんとばっかり思ってたから、ぜーんぜん・・・。それに、
  お父さんやお母さんのこと、結構好きだったし。」
 「好きだったの?」
 「うん。怒られるのだって、私が悪いことしたからかなぁって思ってたからね。それに、親も私のこと
  愛してるから、怒ってるんだぁと思ってた。・・・やっぱ、おかしいですよね、あはは。」
 ・・・・・・


 もしかしたら、絵里ちゃんも、それから彼女のご両親も、明らかに傍から見て虐待にしか当たらない行為を
 「愛情」と勘違いしていたのではないか、と思う。

 怖いのは、される側だけでなく、する側も同じように暴力を愛情にすり替えていることである。

 悪意が無く暴力が振るわれる社会は、どう考えてもおかしい。

 何より、弱い立場の「される側」の子どもたちが、「愛情のあかしとしての暴力」を肯定し学習して
 しまうことが問題なのではないか。



 私たちは、やはり愛情としての暴力などありえない、ということを、言い続けなければならないのでは
 ないかと思う。


 「いやぁ、子どもは、叩かないで育てようと思いますよ。だって、痛いし、怖いもんね。今なら、あれは
  虐待だったってわかりますもん。」
 ・・・・・・

 長い会話の後、絵里ちゃんは言った。




(追記)
 暴力についての記事は、何度か掲載しました。
 もしお暇な方は、どうぞ、読んでみて頂けたらと思います。

 次の文章は、2年ほど前、父が亡くなった後に載せたものです。
  父の生き方(アーカイブ ‥椶蠅搬糧魁http://blogs.yahoo.co.jp/tororoudon3/65028824.html